守るもの、変えるもの -保守?リベラル?-
蜂はいまだに、2021年10月の衆議院選挙で見たものに止まっていて、混乱が続いています。
見た気がしたものは、保守派と言われる自民党の、勝利(既得権益?)への執念と、権力闘争への熱意です。
(念の為に先に添えておくと、保守派、リベラル派、どちらかに好みがあって、そっちが勝ってほしかった、というものではありません。また、全ての物事が理想通りに進むとも思っていません。)
先の衆議院選挙では、前政権のコロナ対策の影響もあって、与党の議席数の減少が危ぶまれていました。
そんな中、自民党の中心にいる議員が、
「この選挙は、学級委員を選ぶんじゃねぇんだ。権力闘争なんだ。」と、他の議員に言っている様子がありました。
実は、蜂はこれを聞いて、すごくスッキリしていました。
と言いますのも、長年の疑問の答えが出たような気がしたからです。
中学校の教科書で「国会議員は学級委員を選ぶようなもの」と書かれていましたが、
「それは違う気がする」とずっと思っていました。
そのため、自分の違和感に確信を持っていいんだ、と思えるような、証言を得たような気がしたからです。
また、今回の選挙では、ベテラン議員と言われる方々の落選も続きました。
これは、報道でもよく言われていたように、国民が、議員一人一人の言動を見始めている証では無いかと思っています。
小選挙区でも比例代表区でも落選した議員が、内閣参与に任命されたというニュースが出ていますが、
個人的には、この議員の落選理由は、2020年1月のコロナでの優先入院が原因ではないかと思っています。
2019年の年末から2020年の年始(ちょうど昨年の今頃ですね)は、
それまででは一番大きな第3波が襲ってきたときで、重篤なコロナ患者でも病院に入れなかったのに、
軽症の議員がすんなり入院したことを、人々は時間が経っても覚えていたのではないか、と思っています。
だからその議員の落選は、「不公平さへのノー」という意味なのではないか、と。
それは、他の議員がコロナにかかっていれば、同じような動きをし、同じような選挙結果になり得たのではないかな、と思っていて、
一番の問題は、それが起こりうる構造ではないでしょうか。
それに気づいているのかな、と、今の動きを見ていて思うけれど、
もしそれがわかっていれば、このような動きはしないだろうから、
やっぱり自民党は、身内に甘くて、変えられないのかな、と思ってしまいます。
ここも保守であり続けるべき点なのでしょうか。
こうした空気を見ていて、息が詰まるし、研究者が海外へ出ていくという話も、ふと頭をよぎります。
一方で、リベラル派の熱ってどこにあるんだろう、という疑問も残っています。
ごく個人的な印象ですが、一般的にリベラル派は、徒党を組むというよりも、
個人で動いて、必要な時に集まるという形が多い気がします。
新しく切り開いたり、創発することに夢中で、権力への熱量はあまりなくて、選挙のときには”見栄え”がしないのかな、
製造やビジネスなど、触れるものがいわゆる保守のテリトリーで、教育や環境問題や民主主義など、目には見えないものがリベラルのテリトリーで、触れられる物の方が重視される世の中だからなのかな、とか、
権力闘争への熱意を目の前で見ると、個人的にはぐぇっと思うのですが、
テレビ画面を通して見ると、それくらいあって普通に見えるという、これまで慣れがあるから、
リベラル派の熱って弱く見えるのかな、と考えたりしていました。
不思議なのですが、自民党を英語表記にすると、the Liberal Democratic Partyとなり、リベラルの文字が入るんですよね。でも保守派なんですよね。
メルケルさんの16年間の足跡のドキュメンタリーを見ていたら、彼女は保守派で、道徳感が彼女を動かす源泉なんだ、とありました。
蜂自身をもし分類するとするなら、主な関心は、教育や環境、民主主義なので、リベラル派になるんだろうと思います。
でも家族として大切にしたい精神的な要素については保守的で、国の守り方にも時々思いをはせる事があり、それは保守派の枠組みになるのでしょうか。
最近は、リベラル派も国の守り方に思いを馳せるようになっていることを考えると、ますます両派の定義がわからなくなって、頭がこんがらがります。
そして先の選挙で見た権力闘争への熱にぐえっときて、人のためになら自然に動けるのに、自分のためには力が出せない自分に嫌になって、
どういうわけか、蜂はしばらく、上の彫刻の写真のようになっていました。
未来の政治家のスタイル?
選挙後にある国会議員の方が、「国会議員もその役目が終われば、他にする事があることがいいんだろうと思う」とおっしゃっていたことが、とても印象に残っていて、蜂は深くうなずいていました。
政治家の役目は変わっていく気がしていて、その姿を思い浮かべたときに、上記の心構えは必要な気がしていたからです。
その心構えがあることで、任期の間にしっかりとやり切ろうという気になるだろうし、
違う世界を見ることで、国会議事堂以外の世界を知り、人としても成長し、厚みが増し、
いずれまた国政に役立つことになるような気もしています。