透明な政治

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COVID-19によって日本で緊急事態宣言が出された中で、最小限生活を維持するために必要な職業にスポットライトが当たり、それらはエッセンシャルワークと呼ばれました。

様々な分け方があると思いますが、医療、介護、保育、流通(小売としてスーパーを含む)、メディアが動き続けていたように思っています。

その中で、文系と理系の違いや研究内容によって活動量の違いはあるとは思いますが、研究職が動き続けたことが意外で、印象的でした。

よく考えてみれば、例えば COVID-19を例にとっても、新しい現象に対して何がどうなっているのかを知りたいし解明したいという思いは、研究者を突き動かす最も純粋な原動力で、それが世の中のために直結するのだとしたら、影の仕事から突然日向にひっぱり出されたようなもので、仕事として動き続けるだけでなく加速しても不思議はない気もします。

理系の研究の究極の目的は予測と現象の矛盾と戦いながら真理を発見することで、文系の研究の場合は現象の説明と再現可能な方法の発見ではないかと考えています。

 

そんな中、科学者の代表機関である日本学術会議から推薦された105名のうち、かつて安全保障法案や「共謀罪」を創設した改正組織犯罪処罰法を批判した6名の任命を総理大臣が拒否し、国会前で大学関係者も参加したデモが起こり、総理大臣が理由を説明をすることを求められるという出来事が今起きています。

 

個人的には総理大臣が説明に応じたことは、まず第一歩としてよかったと思っています。

2015919日に安全保障法案が大荒れの中強行採決され、当時の総理大臣と副総理大臣が椅子に腰掛けて笑みを浮かべているという光景は二度と見たくありません。

また嘘か誠か、議決以前には「決めてしまえば国民は忘れる」という大臣の発言があったようなことも記憶から薄れません。

今回の任命拒否の出来事は、前政権で憲法改正を掲げ、自民党が結果的に意に沿わない発言をする憲法学者を自ら招致して流れが途絶えたときと逆の構図で、同じ臭いがするように感じています。

つまり自民党は自らの政策を後押しする意見を言う学者がほしくて、逆に言えば、意見を異にする学者はいらないと考えているのではないか、と感じてしまいます。

追認を求めている気がします。

総理の任命拒否の説明では、日本学術会議のメンバーは国家公務員となり予算がつくことを理由に、法律に基づき俯瞰して決めたとのことですが、任命を拒否した方々に一定の方向性があることについての理由には触れられていませんでした。

上にも書いたように、文系の研究の目的には現象の説明と再現可能な方法の発見、あるいは再現不可能するためのストッパーはどこにあるのかという洗い出しも含まれるのだろうと考えますが、現状では任命拒否された方々の間に流れている一定の方向性は確かに見受けられ、それを排除したと捉えられても仕方ないし、実際にそれをしていると思います。

 

(2020年10月9日追記: 

10月5日の総理の説明の中での「総合的、俯瞰的に判断した」という発言がクローズアップされています。

どういうことかなと思って調べてみると、総理だけでなく官房長官も繰り返し発言して任命拒否の理由にしており、この言葉は内閣府総合科学技術会議という、総理大臣を議長とし、各省庁よりも“一段高い立場から(ウェブサイトより引用)”政策の立案と企画と総合調整を行うグループから出された「日本学術会議の在り方」の4ページにも見られる言葉です。

俯瞰的して見るということを本当にすると、とても緻密で内的エネルギーがものすごくいる作業になると思います。

そして俯瞰したと言うなら、俯瞰した対象があるはずです。

どのような事項を集めて、総合的に俯瞰し判断に至ったのでしょうか。)

 

実はこのニュースにじっと見入っていたのは、よりも伊都でした。

総理大臣の任命拒否のニュースが取り上げられ始めた頃に、伊都はこうつぶやきました。

「今度の総理大臣は異なる意見を言う人は気に入らないで、はじく癖があるみたいやね。

異なる意見を抑え込むのは家父長制度が成り立っていた時代のやり方で、これがもっとひどくなれば戦時中に憲兵が市民を連れて行ったことと一緒になってしまう。」

日本学術会議の会長から任命拒否の理由の説明と任命の要望があったことに対して、総理大臣が説明する中で上記の思惑は全くないと述べているのを承知していますし、説明の場が設けられたことで個人的には幾分感情のさざ波が抑えられた部分はありますが、どうしたわけか事態の表面を引っかいただけのように感じられて、うーんと首をかしげるばかりで納得も共感も心には生まれておらず、この実感は今もなお残っています。

 

おそらく政府と研究者の間で話が噛み合わないのは、ざっくり言うなら、政府は法律や制度を建前とした理由を話していて、研究者は過去や歴史から考えられる事態や懸念を話しているからではないかと思います。

研究者は学問の自由が侵害されると言っていましたが、表面的に考えれば、どこの大学に所属して何を研究テーマとして続けるかは、憲法や表向きの制度上は自由があるし、研究者は内なる動機が研究の源だからそれが枯れない限り、どんな状況でも続けられると思います。

政府はこういう意味で言っているのではないかと思います。

だけど多分研究者が言おうとしていることは、そういうことではないと思います。

研究を続けるにしても国や企業から予算を確保する必要があり、所属先も必要です。

「外堀を埋められた気がする」というのは、何か必要となるものを得る手段を絶たれたなど、まだ表に出していない何かがあるのではないかと感じています。

個人的にもずっと感じていることであり、今回の政府と研究者の間でも起こっていることのような気がするのですが、ある論点に対する説明として、憲法や制度による理由の強調と、感情や歴史からの教訓や未来への影響への考慮の理由の強調が、不思議なくらい真逆になることが多い気がしています。

これは一体なんなのでしょう。

 

(2020年10月9日 追記:

2020年10月8日付で ネイチャーから、「政治と科学は切っても切り離せない関係にあり、その理由は研究資金や研究テーマの優先順位に関わるからだ」と述べた記事が出ています。

そして科学的根拠を無視したりおとしめたりする世界各国のリーダーの例として、アメリカのトランプ大統領、ブラジルのボルソナロ大統領と並んで、日本の菅総理の名前がPDFの1ページ目に挙げられています。

日本に住む者として個人的に日本の政治を見ていると、ネイチャーに名前は挙がらずとも、総理の考えに賛同して同様の行動をとる政治家も実質的に含まれるように思います。

 

地域のニュースからは、国立大学の教授によってこんな話があったことが紹介されました: ミツバチの8の字ダンスを発見してノーベル賞を受賞することになるカール・フォン・フリッシュ博士は、ユダヤ人である可能性が否定できないとして、ナチス政権下で大学から追放されました。

また国立大学勤務の准教授は、「一般的には(政治と学問が)どう繋がっているのか見えにくいと思いますが…」と控えめに前置きした上で、「今回の政府による任命拒否がまかり通るなら、政権に研究内容がふさわしくないと判断された場合には、文科省から大学へ特定の研究者を採用しないよう通達があるのではないか、という恐怖感を覚えた」という話もありました。)

 

 

またもしかすると研究者は、世俗っぽい事柄を挙げて叫ぶことを嫌うかもしれません。

だけど相手にしているのは、「これが政治だよ」という不可思議な言葉でルールを決めても、おかしいと思わない規則が働いているグループかもしれません。

上品にオブラートに包んで表現すれば、「政治的判断」という言葉になるのでしょうか。

COVID-19の専門家会議を見ていて、そこに「これが政治だよ」が働いているとは思いませんが、本来なら国民から選ばれたはずの政治家が研究者の意見を理解して吸収して、柔軟な政策が生まれてくるのかなぁと思っていたら、追認を求める組織編成になっていたりして、研究者の能力を政治家が活かしきれているのかなぁと思ったりもします。

それぞれに飛び抜けた研究者の能力を活かすことは、けっこう大変なことだと思います。

国をまとめる総理大臣というの立場は、官僚の頭脳に丸め込まれるのを怖がったり、指向の合う学者の話を聞くだけで済む立場ではないと思います。

だけど一人の偉大なリーダーは機能しないことを教えたのもCOVID-19だと感じているので、自らの持っている資質に自信を持ち、わからないことはわからないと素直に言え、知っている人もわかるように教え、そうした流れが頻発するネットワークの方が、全体的に底上げされたしなやかな強さと持続可能性を持っているんじゃないかなと考えています。

捨てた方がいいと思う習慣は、知っていることで偉ぶったり見下したりすることや、それぞれにかかる無意味なプレッシャーではないかと思っています。

こうしたことがなされているかは別として、外から見ていると、東京都の感染対策会議の結論の方が人間味もあって多くの事項の間をとったんだろうなぁと感じることが多い気がしています。

いずれにせよ、政府に非難の矛先が向けられるなら、政府の得意な新自由主義的発想に流れ、日本学術会議は民営化などと論点をずらさないでもらいたいと思っています。

 

(2020年10月13日 追記:

「党と政府が協力して日本学術会議の行政改革を議論する」という話が出ています。

任命拒否の理由について総理が明確に答えられないプロセスを踏んでいて、話を紐解いてみれば総理自身が105人の推薦リストを見ていないという話と、さらには官房副長官が任命拒否に関与したというニュースが出てきている今です。

行政改革すべき対象は、政府が踏んだ、真っ正面を向いて答えられない任命拒否に至ったプロセスと、根底にある考え方ではないでしょうか。

 

 

20201017追記:

16日に日本学術会議の会長と総理大臣がおよそ15分間の面会をしたという報道がありました。

前にも書いた通り、面会が行われたことはいいことだなと思っています。

ただ気になったのが、日本学術会議の会長のインタビューの中で、面会内容のひとつに、日本学術会議のあり方の意見交換をしたときに、総理から会長に「しっかりやってください」と出たという話があったことでした。

聞いたときに「?(ん?)」と違和感があったのですが、すぐにどうしてかがわからずに流してしまいました。

しかししばらくしてまた違和感が戻ってきたので、これはどうしてかなと思っていると、こうした理由からではないかと思い始めました。

16日の面会の趣旨を詳しく見てみると、COVID-19によってかなわずにいた会長就任の挨拶と、日本学術会議での議決書(1. 任命拒否の説明要求2. 任命拒否した6名を任命すること)を総理に手渡すこと、議決書への返事はその場で求めるものではないのでその話はしていないこと、日本学術会議も自身のあり方について共に考える旨を伝えたことが挙げられていました。

日本学術会議の会長の話し方からは、穏やかで相手を急かさない、少しでも関係を作った上でいい話し合いをしていこうとする意思と、話の内容からは、「政府から日本学術会議のあり方についての議論が出ているなら、自分達もそれを共に考える」と相手の主張を大きく受け止め、政府側の広げた議論の場に自ら入っていったように感じました。

もし仮に自分が政府側だったとして自分にやましいことが何もなければ、日本学術会議側がこういう姿勢をとったのなら、「あなた方がそうおっしゃるなら、私たち政府もあなた方の広げた主張に足を踏み入れて、共に話し合います」と言うのではないかなと思っていました。

それが対等に立つというか、話し合いの礼儀というか、マナーというか、外してはならないポイントのような気がするし、意見が相反する場合、本当に話し合おうと思えば、まずは少しでも関係を作るためにも相手の言い分をまず聞くと思うからです。

ところが総理の受け答えからは「(学術会議の社会への貢献のあり方の検討を)しっかりやってください」ということが出たのを聞いて、頭の上に疑問符が浮かび、内心ではずっこけていて、違和感をもったのだろうと思います。

総理はこの問題を他人事と捉えているのではないか、日本学術会議のあり方の検討というテーマを後出しで持ち出して作業チームに丸投げし、自分はデジタル化推進などに意見の合う政策ブレーンを集めて(政策ブレーンと呼ばれる方々はどのようなプロセスで選ばれているのでしょうか) 取り組みたいのかなと感じたり、政府側が後出しで持ち出した議題に自ら歩み寄って来た側に対して、あの応答はちょっと無神経で失礼なのではないかなと思ったりしています。

 

また総理は自分で、日本学術会議のメンバーの任命権者は総理大臣だと言っていました。

報道にあるように事務方である官房副長官が任命拒否の6人を決めて、総理が推薦者105人のリストを見ていないとしても、最終的な責任は総理にあることになります。

そこで異議が出ているなら、任命権者として任命拒否の6人が選ばれた理由を振り返って検証する流れに持っていくのが、国民から選ばれたはずの総理大臣の真のリーダーシップなのではないでしょうか。

これができたのなら、おそらく背後に隠れている“悪しき慣例”が浮かび上がって来て、総理が掲げる“打破”にもつながるだろうと思います。

少なくとも、派生したテーマを作業チームに丸投げして、他人事ですむ話ではないはずです。

 

こうしたことに気づくまでに一晩悶々として夜が明けて伊都に話したら、「それは言っていることとしていることが違うからよ」とあっさりと言われ、早く聞いてもらえばよかったと思いました。

 

自分を含めて、ときに人は、人に言っていることを自分に言い聞かせていることがあります。

日本学術会議に対して「国民から理解される存在に」と言っているのは、もしかすると自らにも向けられている言葉であり、解決策なのではないかとふと感じます。)

 

 

そして理想を広げる前に、直視しないといけないことも残っている気がします。

COVID-19や大災害はその人の考え方や本質はどんなものかという、普段の生活ではそこまで焦点を当てられない根底に流れているものを暴く性質があるように思います。

それは個人の人間関係でもそうですし、社会的な関係でもそうではないかと思います。

個人的にびっくりしたのは、これまでも薄々感じてはいたし、動画のファクトチェックが必要だとも思っていますが、自民党内部で軍事的に強い日本を目指していて、それを国民に担わせようとしているんじゃないかという予感を深める自民党内の講演の動画を偶然目にしたことです。

ひとまず動画の件は横に置いておいたとしても、第二次世界大戦の内情をみれば、戦争は国同士の戦いだと一見見えても、例えば同じ国の中で陸軍と空軍の意地の張り合いから作戦が過激化したり、司令部が前線に物資も送らずに地下壕で机上の空論の戦術を立てていたり、防空壕では市民を守るはずの兵隊が混ざっていただけでなく、黒糖欲しさに少年を即座に射殺したり、実は敵となる存在は国内にも存在していたことが見えてきます。

現代に二度とそうしたことが起こらないことを望みますが、二世政治家が増える中で、国民の声よりも、家族内で話されていたかもしれない先代の悲願の達成が優先されている考え方が息づいているのではないだろうかと想像したり、政権をとったり総理大臣に就任したから何をしてもいいわけではなく、一つのサインで国と歴史が動き、いざという時には優先的に安全な場所に行ける地位にいるにも関わらずそれを自覚せずに、自分達も国民と同じ目線に立っていて国民に寄り添っていると勘違いしているのではないかと思うこともあります。

多様な意見を聴くことのできる、人間的に大きな器を一時的にでも体現できる人やチームが、その役職を占めてほしいと願ってしまうのですが、やはりこれも絵に描いた餅でしょうか。

 

漏れ聞こえてきたり不可思議に感じる話に、政策に異を唱えた官僚は謝罪するよう党内の人物から諭されて謝らずにいると異動させられたり、被害を受けたジャーナリストの事件がなぜか不起訴になったり、メディアのキャスターが特定の時期に異動したり、何が起きたのか全体を知りたいと思うような出来事が過去数年に頻繁に起きているように思います。

表に現れた事件として、IR事業で賄賂を受け取ったとして議員が逮捕されたり、前法務大臣夫妻が選挙資金に関して裁判中であったり、公文書が破棄されたいわゆる森友学園、加計学園、桜を見る会に共通する出来事や、LGBTQの方々に対する心ない発言をし続ける自民党内の議員が党内でかばわれていたり、どうしてこうも、少なくとも個人的にはおかしいなぁと思う事件が次々に起こるのでしょうか。

一般市民に内情までわかりようもありませんが、それらを結び付けている中心の磁石が何かおかしいのではないかと感じても不思議はないと思います。

もしこれが企業だったり、本当におかしなことをした、おかしなことが起きたと思っているならば、経営陣は前のやり方を踏襲すると公言して役職に居座るどころか、体制見直しと信頼の回復と透明性の構築のために総入れ替えをするはずです。

 

透明な政治をしてほしいです。

市民が斜に構えて見なくても、なんとなくそうだろうなとすっと入ってくるような、信頼できる政治をしてほしいです。

それを実現している台湾では、MARSの経験もあって、原因不明の肺炎患者が7名入国したという情報を聞いただけで水際対策を強化し、今では国民のマスク着用で極めて低い感染者数にとどめながら、普通に近い生活を送っていると聞きました。

日本ではMARSの経験がないにしろ、台湾の1月からの対策と経過の情報を手に入れられないはずはないだろうし、台湾の初期の原因不明の感染者数と同じ人数挙げて、こんなにGoToトラベルキャンペーンでの感染者は少ないと胸を張っていたのを聞くと、がっくりきます。

 

研究者は追認するのが仕事ではなく、それ以上のことができます。

それらを練り合わせる広い場を作るのが、政治の使命なのではないでしょうか。

 

 

 

ビーレエションシップを探検!