本質にとどまるためのオープンフォーラム

Kengington Gardens_002

 

今回は政府が経済対策に急いでいる状況に心を入れてみようと思います。

実はこれは非常に難しく、この発想にたどりつくまでに時間がかかり、抵抗もありました。

 

その前に、最近感じていることを整理しておきたいと思います。

政府が推し進めたい政策(GoToトラベルキャンペーン)の実施の素早さや、指定感染症対策に関して言及したくない責任(国としての国民の私権の制限と補償制度のための法律改正)への議論の取りかかりの遅さ、そして推し進めたい政策にとって都合の良い側面を切り取ったように聞こえる政府の現状認識を、定型句のように繰り返し耳にすることに疲れを感じています。

(政府は「若者は感染しても重症化しない」というメッセージを発信しますが、重症化には時間差があり、若い人でも後遺症が残る可能性があることを同じ場で伝えていません。

感染者数が増えてくると、今度は「感染者数に注目するのではなく、大事なのは重症化する患者を増やさないこと」と言いますが、市中感染が広がれば、重症化しやすい人へウイルスが忍び寄るのは時間の問題です。またデータをとって分析をすることを重視しているにも関わらず、不都合な数が出てきたら感染者数を軽視し、割り算などで加工した説明にちょうど良い数字を重視することは、現場と中央政府の実感の乖離をますます広げるだけです。都道府県が独自に緊急事態宣言を出すようになった今は、PCR検査の陽性率は取り上げられても、感染者に占める重症者の割合を強調するメディアは少なくなっています。

「病床が逼迫していない」と言いますが、何も手を打たずにいればこれも時間の問題です。実際にこれを書いている間に病床が埋まってきていて、望まない自宅療養の問題が第1波のときのように繰り返されています。

そもそも第1波の過酷な現場で社会の偏見に怯えながら戦ってくれた医療従事者への敬意と配慮はどこへいったのでしょうか。

改めて書き出してみると、第1波のときに何を見ていたのだろうかと思い、現状認識に曇りがあると、本質を貫く発想と行動の継続はますますハードルが高くなることを感じます。)

 

細やかな発見と対応をしている地方自治体や医学会にせっつかれる形で、抵抗しながら重い腰を上げて対策に乗り出す政府は、これまでインバウンド狙いやIR事業に重きを置いて国が主導で成長することを目指し、土台の一つであるこの分野に関して力を注いでこなかったんだろうな、だから今どうすればいいか積極的に試行錯誤するだけの先見性と実感がないんだろうなと感じています。

あるいは今浮かび上がっているように、適切な問題対応の範囲は地方自治体で、中央政府は積極的な後方支援と共通項の整理と対応をするというのが自然な姿であり、より少ないエネルギーで効果を出せる方法なのかもしれないと思います。

ただそのときに、思い通りに動かない子どもに対して親が「それなら知らない。勝手にすれば?」と責任を放棄するような態度はとらずにいてほしいと思います。

 

揶揄してとことん追い込む雰囲気

とはいえ、総理が布マスクを市販のマスクに変えたことを微に入り細に入り追求して、一本取ったように報道する一部のメディアの姿勢も違うような気がしています。

2回目に布マスクを配ると政府が発表したときに国民から猛反発が出て、それを聞いて対策を取り下げたのだから、もうそれでいいじゃない、
相手が他方の意見を取り入れて折れたように見えたとき、その証を拡大して広く報道するのは力の使い方として違うのでは、という思いがわずかに出てきたのも本当のことです。

(そもそも国民の意思を取り入れることと政府のしたいことが食い違ったり、他方の意見を取り入れることがすなわち、権威や権限、影響力が弱くなったと見たり感じたりする構造になっていること自体が問題なのだと思うのですがコロナ禍以前の経緯と政府の体質や、国と地方自治体と市民の関係の質も影響しているのだろうなと思います。)

揶揄してとことん追い込む雰囲気は、もしかすると政府が1回目に布マスクを配ったときに、税金の使い道が違うと反発が出た中で政策を推し進めたことに対する反発の残り香なのかもしれないし、日本の意思決定機構の話し合いの文化の特徴を逆に反映しているのかもしれないと思いますが、いずれにせよ日本の中でそうしたことを続けていると、本当に意見を戦わせて大切なことを針のように深掘りしなければいけない今のようなときに、人としての信頼の欠如から守りが固くなったり、立場の隔たりが大きくなったりして建設的な意味がない気がします。

常々祖母が「相手を追い詰めるまでとことん言うことはよくない」と言っていたことを思い出すのですが、自分を含めてそれがなぜ大事なのかを考えてみることは、信頼関係を育んで指定感染症の対策を進めていく上で大切なことかもしれないと思っています。

 

(ちなみにですが、布マスクそのものには罪がないわけです。

ビーレエションシップは生地に触れる機会があるので、布マスクを手に持ったとき、思いがけず小さくて可愛らしいという気持ちになりました。

そして手触りが懐かしくて、小学生の時に使っていたことを思い出しました。

外で使うことは残念ながらなかったのですが、せっかくだから何か使い道がないかを考えたくなりました。

結果的に外から持ち込んだものを家の中で触るときに、誤って口や鼻を触らないために使うようにして、ようやく機会を見つけたときには、布マスクに役割と居場所ができて良かったねと思いました。)

 

オープンフォーラム

最近は、経済を回しながらどのように感染拡大を防ぐか、ホテル療養や空港での待機に応じない人の隔離について人権の観点と感染拡大の観点からどのような公的な対策をとるか(つまり私権の制限と補償の枠組みをどうするのか)について国民的議論を、という言葉が聞かれるようになってきました。

ミツバチの合意形成」で書いたように、あるいは継続的なオープンフォーラムが開かれていて 意味深いと感じた ように、同時に成り立たない両者をどのようなエネルギー配分と順番で進めていくかを決めるとき、いろいろな立場の視点から問題を眺めたときに何が見えるかを出し合うことは大切なことだと思います。

経済も感染症も命の問題であることを考えると、決定のプロセスに参加し共有すること自体に意味があるからです。

ただ今の時点での仕組みでは、そうした流れはすでに始まっているとしても、まだ、一般市民にそれを求めるのは机上の空論に終わる可能性が高いと思います。

理由の一つは、状況把握に時間とエネルギーの労力がかかり、日々の仕事とは別に情報収集をするには物理的な時間とエネルギーの限度があるからです。

報道関係者、専門家、政策決定者はそうしたことが日々の仕事の一環で頭に入っていると思いますが、そうしたアドバンテージがすでにあることを気づいていてほしいと思います。

 

そうした現状を踏まえた上で、COVID-19が出てきたのは政府の責任ではなく、誰もまだ解決していない問題なのだから(振り回されていたり混乱したり感染が拡大したりするのは人の判断の影響が加わっていると思いますが)、わからないことや行き詰まったことは表現して共有し、知恵を募り(善意とやりがいの搾取につながらないように気をつけてほしいと思います)、自由記述で発信者と結びつけたまま(また話しを聞くことがあるだろうから)ログ化していけば、自ずと対策の焦点はあってくるし、各地方自治体の話し合いのプラットフォームや蓄積された記録になったり、自ずと法律改正の論点の焦点もあってくるはずと思います。

そうした考えのもと、例えば内閣官房の「新型コロナウイルス感染症対策」のウェブサイトに、国民的議論を促す何か(医療の目詰まりの問題点や法律改正の論点の共有、まだ分類できないもつれなど)はあるのかなと思いアクセスしてみると、公募に「AI等技術を活用したシュミレーション開発」と「ご意見募集」がありました。

AIを活用して医療リソース(病床・医療物資など)の最適配置を検討していることが見えてきます。

これを知ると、どうして今再び、例えば沖縄で医療体制の逼迫が起きているのだろうという疑問が湧いてきます。

官房長官がちくりと言ったように、沖縄が病床の準備が遅かったからでしょうか。(人が動けばウイルスも広がることがわかっていて、感染対策の期待値の上限をもって大丈夫と人の動きを推奨して、それはないだろうと思うのですが…)

AIはまず大量の基礎データが必要だと思いますが、COVID-19が発生して、そうは言っても間もないため、まだデータが足りていないのでしょうか。(仮にそうなら、データが足りる頃に収束しているようなことにはならないでほしいと思います。)

AIに医師や看護師の心身の状況を判定する能力はないと思うけれど、そこはどこが守るのでしょう…。

 

自由記述の意見募集では、「個別に回答することはしないけれど、必要なときは問い合わせるし、個人を特定しない形で公開することもある」という一般的な公的機関の姿勢のようです。

市町村のパブリックコメント募集でもそうですが、送った後どうなったか、何につながったかもわからなければ、時間とエネルギーを割いてメッセージを送ろうとはあまり思いません。

一方で地域を回って、市民と直接顔を合わせて話をする機会を作る市長がいることを思い出します。

その市長さんの政策は堅実でありつつ夢があって変化があって、この街に住んでよかったなぁと思えます。

やはり双方向性は大事なのではないでしょうか。

 

こうして見るとおそらく政府の対策というのは、第1波のときにも感じたように データの分析が主な印象を受けます。

この考え方が中心にあれば、人間の頭と知恵を使う法律改正に及び腰になるだろうなぁという気もします。

ただそれでも、審議する法案がないから臨時国会は開かないというよりも、今こういう段階にいるから、これがまとまれば国会が開けると言う方が説得力あると思うし、今どの方向に進んでいて、議員は日々どんな仕事に取り組んでいるかも示せると思います。

また民主党政権と比較して自民党政権の有能性を誇示しようする政治ジャーナリストの発言を聞きましたが、相手をおとしめて自らに近い立場を誇るのは意味がないだけでなく、後に書きますが、少し前の時代の雰囲気を如実に反映していると思い、もしこれが政権の本音だったら(特定の人ではなく)この考え方そのものが問題だと思います。

 

国の国民的議論の仕組みや工夫が弱いとなると、出番はメディアに回ります。

放送局にはSNSなどにアウトリーチするチームがあるようで、ツイッターなどが番組で取り上げられますよね。

もっと込み入ったテーマの場合、どのように内容を深めていくのでしょう。

(余程おかしな法案に起こった時の市民の集合的な意思を示す、ツイッターのハッシュタグの急上昇という方法だけでなく)

メディアによっても放送局によっても出てくる雰囲気は異なります。

深めたオープンフォーラムを可能にする方法はどのようなものか、個人的にも疑問に思っているテーマです。

 

自殺急増の懸念

さて、経済対策にまつわる個人としてのざっくりとした考えを整理した後で、本題である、政府が経済対策に急いでいる状況にいよいよ心を入れてみようと思います。

いくつかCOVID-19渦中とその後の経済予測を見ましたが、一番心に残っているのは「COVID-19が収束するまでどんな経済対策も無駄。命を守る産業に集中投資を」という経済学者の言葉です。

自分に当てはめて考えても、病気になれば療養しなくてはならないし、再び働き始めても同じ量の仕事ができるとは思えず、規模を縮小したり、価値観や考え方そのものを根本から変えざるを得ないことも十分ありうると肌で感じるからです。

 

一方で官房長官が「観光業は瀕死。何もしないわけにはいかない。」と話していた沈痛な表情も心に残っています。

おそらく政府が一番恐れている状況は、経営不振による自殺者の急増じゃないかと思います。

2006年頃に臨床心理学を勉強していたときワークショップに出るたびに、「1998年から自殺者が3万人を超え続けるのは異常。社会が何かおかしい」とよく聞いていました。

バブル崩壊後、経済の合理化から派遣労働者が増え、正社員との違いを同じ職場で感じざるを得なくなり、強くなければ、優秀であることを証明しなければ生き残れない空気が漂っていた頃だと思います。

誰かを蹴落とさなければ自分が蹴落とされる。将来を悲観する雰囲気が世の中を覆っていて、社会のセーフティーネットがどんどん壊されていき、仕事を自分の存在証明と感じやすい男性に重圧がのしかかった時期です。

今のように身体的距離を取る必要はなかったけれど、心の距離はものすごくあった時期だと思います。

政権で言えば、橋本内閣から小泉内閣の頃です。

 

心の内面に接する者として思うのは、自殺願望が芽生えるとき、自分が消えていなくなってしまいたいと感じるときは、「これが自分だ」と感じている限界ラインに来ていて、そのラインを超えた自分が想像できないときだと感じています。

逆に言えば、逆境にあっても自分を柔軟に変化させられる気力と支え(環境)と時間があれば乗り越えられる可能性は高くなると思います。

ある飲食業界の人がニュースで話していたのは、「食べてもらっておいしいって言ってもらえるのが一番うれしい。お金もなんですけど、それだけじゃないんですよね」と机に手をついてがっくりしながら話していました。

人は自分のできることで、人に必要としてほしい生き物なんだと思います。(対極にあるのは、恥の感覚を増長させる生活保護制度だと思います。)

仮に違う形態に変化したとしても、その人にとっての喜びから離れずにいられると、生きていく希望があるかもしれない。

万能な答えは出せませんが、こうして見てみると恐いものの本質が少しでも透けて見えてきて、政府として、公的機関として、データ分析以外のすべきことが見えてこないでしょうか。

 

もう少し詳しくはっきり書きます。

上で見た通り、今国民は変化と逆境を予感したり、すでにその中に入っていて不安になったり心が揺れているから、総理に出てきて話してほしいという声が出てきたり、現実を直視していないような先見性を感じられない認識とそのアナウンスの繰り返しにいらだつんだと思います。

声を荒げなくても自分はセーフティネットから外れていないのか。

変化しなければならない時、精神的に支えられる社会は見据えられているのか。

そもそも感染による命の危険を政府はきちんと認識しているのか。

それを確かめたいんじゃないかと思います。

 

イギリスのエリザべス女王のスピーチやドイツのメルケル首相のスピーチ、ニュージーランドのアーダーン首相の語りかけや台湾の蔡英文総統の迅速で論理的で透明性のある政策がそれぞれ国民を支えたというのも、国から不安を取り除き信頼を育んで、心を安定させたからだと思います。

女性は病気と聞いたら即座に手を止めて対処に向かうことが割と自然にできて、病気によって突然状況が変わることを知っていたり、共感能力が男性より高いという特徴はあるかもしれません。

それでも人間として自分の心からの言葉を話せば伝わると思います。(それが自分には合わない方法だと思うときは無理に他の人を真似する必要はないと思いますが、国をまとめる人の声を求める声は消えないと思うので、自分に合うやり方を見つけ出す必要はあるように思います。)

そして男性に得意な論理的な思考で、現実的なセーフティーネットの網の目(施策)を、実感も働かせて張り巡らせて(作って)ください。

見えつつある試行錯誤の結果と今とこれからの状況を見れば、多分バランスというよりも集中的に選択をして、力を入れなければいけない時は近い気がします。

バランスをとっているというのは、いい具合に力を抜いて本質に沿って流れていく状態を意味することもありますが、両極に挟まれて動けない状態をバランスをとっていると誤解することもあると思います。

もしかすると今からでも遅いくらいかもしれないし、既存の社会保障まで広げて考え直さないといけないかもしれません。

それを実行しなくて済めば、骨折り損かもしれませんが、見えない影の仕事をした自信は、言葉と表情ににじみ出るはずです。

 

 

 

(2020.9.3:追記)

今日の手持ちの現金が30円しかなくて食事をどうしようかとどん底にいる気分の人が、ふとテレビから流れてきた、これから掲げられる可能性のある国の目標が「自助・共助・公助」と聞いたら、どう感じるでしょうか。

“自分が頑張れなかったから今の状況なのか。
頼れる家族もいなくて、仕事で地域を転々として地縁もなく、この状況を誰かに話すことさえ恥ずかしい。
こんな自分は国に情けをかけてもらうかのように助けを求めるしかないのか…”

派遣切りが多く起こった時期に自己責任論という言葉がナイフのように出回ったことを思い出します。

そこに構造的な問題はなかったのか。

周りの支えがあるから自分で立って進んでいけるのが、人間の成長の自然な流れなのではないでしょうか。

 

作業をしながらちらっと聞こえたのですが、幸いにも厚生労働省は、生活保護の申請に来た人には、質問項目を簡素化して申請を受け付ける方針だと報道されていたように記憶しています。

カウンセリングでもそうなのですが、人がそうした場に足を運ぶまでには、ものすごく葛藤や迷いがあったり、自分で自分に向けられた刃があることを忘れてはならず、そうした背景を想像しながら迎えるものです。

パンデミックが起きて予測しない事態が起きている今のこの状況で、あの目標を掲げられるのは、高みから見た強者の感覚だろうと感じています。

 

もう一点、もし自分の所属する集団を変えるのには権力が必要だと思っているならば、まず自分の身を守る必要があるので、その思いを捨て去ってほしいとは簡単には言えません。

だけど、変化に権力が必要というのは本当にそうだろうか、上の世代がしてきたことを繰り返すことが本当に正しいことだろうか、違うやり方はないのだろうか、という微かな疑念は胸に抱いていてほしいと願ってしまいます。

虐待が世代間連鎖するのは、親から受けた傷が身体的にも(脳の変化を引き起こすそうです)精神的にも子どもに残っているからということと、虐待を受けた子どもはそれ以外の接し方を体験したことがないから、というのがざっくりと挙げられます。

自分が受けた同じ仕打ちを繰り返さないぞ、と自分のところで受け止めて、思い描く方向に変換することは、とてつもなくエネルギーがいることです。

それを感じるからむやみやたらには言えませんが、もし今のやり方に違和感を持っているのなら、微かにでもその違和感を大切にしてほしいとふと思います。

 

これからどんな社会が待っているのでしょう。

 

ビーレエションシップを探検!