闘う医療現場

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は基本的には大雑把なタイプで、赤ちゃんの頃は飲み終わったミルクボトルを投げ飛ばしていたそうです。

その気質は今も残っている気がしていて、お恥ずかしい話ですが、普段は気がつくと割れにくい磁器を使っていたり、急いでお茶碗をガチャガチャ扱わないようにするために、意識して心の考え事を消し、手元に集中していないと、すぐに地が出てしまいます😓

はい、本当にお恥ずかしい限りです。

普段の生活でも、足りていないものを思い描いて、流れを整える仕組みを作り出すまでは、その他の動きを止めて集中し、緻密に考えるのですが、それが見つかって作った後は途端に、きちんとその流れを整えることを気にしなくなってしまいます。

おそらく丁寧に細やかに作るのは、できるだけ考えないといけないことを減らしたいためで、これも多分大雑把な性格を自分でなんとか補うためのものなのかなと思うと、やっぱりベースには大雑把な性格が横たわっているんだな😅と思います。

お恥ずかしい話ですが、部屋は慌ただしさに比例してぐちゃぐちゃに乱れて、きりがついたときにまとめて片付けると、散乱具合から自分が何を考えていたのかがよくわかるという始末です。。

 

こんな蜂ですから、冬場のインフルエンザや風邪対策や、初秋や初夏の汗ばむ季節の汗の管理などは、衛生対策が得意な平次に教わりながら、時に反発しながら、学んできたところがあります。

それでも、歳を重ねるとだんだんそうも言っていられなくなって、反発するどころか、自分が知っていることを責任を持って実践し、この場にいる人を守らなければならない、という状況も増えてきました。

(おそらく初めて子育てする人がその責任の重さに戸惑うというのも、同じような方向の話なのではないかなと想像しています。)

そしてふと気づくのです。

「手を洗った?」「うがいした?」「汗かいたら着替えなさいよ?」「ご飯はきちんと食べた?」と言ってもらえることのありがたさと、前もってリスクの可能性をその場に見てくれている人がいたことの心強さを。(もちろん怖がらせすぎや、怖がりすぎもだめですが)

 

地域のかかりつけ医

少し前にかかりつけの医院に、インフルエンザの予防接種を受けに行ってきたときのことです。

いつもお世話になっているかかりつけ医は、年配のご夫婦で診察されていて、看護師さんも穏やかで優しくて、患者一人ひとりのことをよく見てくれている、とてもアットホームな感じのある病院です。

一人ひとりの話をよく聞いてくれるから、診察までにはちょっと時間はかかるけれど、リビングのような待合室で待つときは、リラックスして待てるし、看護師さんと患者さんが話している姿や、看護師さんが高齢の方に話しかけながら、手を添えて同じペースで歩く姿を見ていると、こちらも優しい気持ちになれたり反省することもあって、そうしたいろいろなことを含めて好きな病院です。

忙しいとどうしても対応が事務的になったり、機械的になったりしがちな中で、何年にも渡ってずっとその雰囲気を続けていられるというのは、すごいなと思うし、秘訣はどこにあるんだろうと気になったりもしています。

 

ゾーニングの闘い

蜂は先日その病院を訪れたのは、COVID-19が出てきて初めてだったのですが、看護師さんや医師の様子がいつもと違っていました。

発熱のある患者さんは、あらかじめ電話で来院したい旨を伝えるようになっていて、患者が到着すると、医師は目にはゴーグルを、手には手袋をつけて、パタパタパタとスリッパを鳴らしながら玄関先まで患者を迎えに行き、一番奥の診察室まで案内されていました。

そして患者が途中で院内を移動する時も、医師は患者にずっと付き添っていました。(おそらく、一般患者との境界線をきっちりと守るためではないかと思います。)

その医院は、発熱患者に対応することもあるせいか、今まで訪れた病院の中でも、感染対策への気の使い方がかなり高いように見え、蜂が待合室にいた2時間の中だけでも、医師は玄関と奥の診察室まで何度も何度も往復していて、移動距離の歩数がかなり多く見えました。

病院の構造上、一般患者と発熱患者を分けることが難しい病院があるというニュースや、東京都に発熱患者をまとめて受け付ける発熱外来を作ったというニュースを思い出していましたが、ただでさえ発熱患者を診ることは神経を使うはずなのに、移動の距離が多すぎることは疲れにつながるんじゃないかなぁ、医院の敷地の中に発熱外来の建物が建てば、先生も診察に集中できるだろうになぁ…、と勝手に心配になったりもしていました。

全ての医師が診察で手が離せない間に、新たに発熱患者さんが来ることになると、いつもはゆっくりとした話し方で穏やかな看護師さんが、会計を終えて帰ろうとしている患者さんに、「〇〇さん、ごめん、椅子に座ってて。」と、穏やかながらも、緊迫感のある声で動きを制止し、発熱患者さん用に、玄関から奥の診察室へ通り抜ける道を確保していました。

そして医師が発熱患者さんを連れてさっと通ると、看護師さんは「ごめんね、もう大丈夫。帰れるよ。」と動きを止めた患者さんに声かけをしていました。

その看護師さんは、その雰囲気にぴったりな淡い桃色のナース服を着ていたのですが、動きはいつもと違って、手で「動いてはだめ」という合図を待合室の患者に送り、体は仁王立ちのように立つことで、全身の動きを使って伝えているように見えました。

もちろん待合室の患者で動く人は誰一人いませんし、文句を言う人もいません。

蜂が看護師さんの姿を見たとき、”看護師の闘う姿だ”と思い、とっさにバンクシーのゲームチェンジャーの絵の、男の子の看護師への憧れの眼差しを思い出し、蜂の目の前にフィルターのように重なって見えたような気がしました。

コロナ禍での病院では、人を守るということが、病状のない患者と発熱患者の境界線をきちんと設けることで、いつもは優しく寄り添って歩く看護師さんが、不用意に周りに感染させないよう、待合室の人の動きを止めるようにはっきりと言うことに変わっています。

これは今の時代の絶対に忘れてはならない変化だ、と蜂は自分自身に思っています。

 

ビーレエションシップは教育、医療、介護、保育、福祉、心理という分野により馴染みがあるのですが、そうした領域にいる人の中にはときに、自分をよく見せたり、自分に注目を集めたり、自分の思い描く目的のために、自らを強く出すことにあまり興味を持てないという人がいます。

もしかするとそれは、誰もが生まれて老いていくこと中で起こることを見ていると、外から何かを加えて飾り立てられたものに、自然に興味が持てなくなるのかもしれないし、自分の見ている現状(と大切にしたいもの)との間に、言葉にしづらい違和感が生じるから、というのもあるのかもしれませんが、他の理由もあるかもしれません。

だけど誰かを守るためなら、人が変わったように強くなれる。

COVID-19が出てきて、そうした性質やそうした人たちがいることがクローズアップされている気がしていましたが、蜂自身は実際に自分の目で見たことがありませんでした。

しかし先日、いつもは優しい看護師さんの内側の強さが、あまりにも自然な流れで、とっさに出てきたのを偶然目の当たりにし、その姿が輝いて見えて、強い磁力に引っ張られるかのように目が離せなくなっていると、蜂の心をギュッと掴まれていました。

そして心のどこかで、この光景をいつかこの時代が終わっても絶対に忘れたくない、と思っていました。
(これが今書いている動機です。)

 

そして看護師さんの姿に、この半年間感じたことのないような深い安心感を蜂は覚えていて、体の奥が緊張していたのをふっと緩まるのを感じていました。

リスクのある可能性があることを、前もって現場に見てとることができ、それを伝えてくれる人がいることを目の当たりにしたからかもしれませんし、病院ではこうするんだ、という基準を学ばせてもらったような気がしたこともあるかもしれません。

というのも、リスク要因を持っている人と持っていない人を分ける動きは、高齢者がいる環境であったり、上の世代の人と関わりのある人にとっては、頻繁にとる行動ではないのかと思うのですが、それを行う方にしてみれば(職務上の決められたルールなどがない場合)、ときにそれが厳しいのかなとか、神経の使いすぎかな、相手は窮屈かなと思うことがないわけではなく、また自分にそのようにしてもらうこともほとんどないため、それがどのような感覚を人に与えているのかを、客観的に見る機会もほとんどありません。

また実際に接する機会のある人に「そこまで気にしなくても大丈夫よ」と言われるとますます迷いは深まります。

洗濯したり、洗剤で洗ったり、掃除をすれば大丈夫な範囲での動きなら、こちらもどんと受け止められますが、感染経路としてはすでに十分につながっていて、感染しなかったのは感染要因がないラッキーな状態だったから、という状況に巻き込まれると、”これから2週間のうちに何事もありませんように…”と、ヒヤヒヤしながらカレンダーを見つめる状態になります。
(COVID-19とは原因は違っても、免疫系の異常から来るだるさや、呼吸器系や血管系の疾患の話を聞くと、体感で想像できるからというのもあります。)

また笑われるかもしれませんし、経済的には役に立たないことだともわかっているのですが、自分でリスクをコントロールできない店内での飲食は一度も行けていませんし、公共交通機関も避けています。

一方で蜂が介護福祉関係の方に会うときには、蜂自身が逆に近づきすぎてしまって、「あっ、気づかずにごめんなさい」ということもありました。

職場や職域によって感染対策への感度の違いは、いい悪いではなくて、どうしてもあるのかもしれない、ということもなんとなく感じています。

また関係が近い人ほど、これまでとは違う方法(感染対策をした状態)で接することには違和感があるのも正直な実感で、ちょっと気を抜くと、COVID-19以前の感覚に戻りやすかったり、相手はどのように感染対策を捉えているんだろうか、とわからないうちは、なんとなく率先して言い出しにくい状態にもなったこともあります。

そんなときに国や専門家委員会が、これまでに国内外の感染状況の事例を見る中でわかってきた、家庭内や職場内での感染経路にはどのような行動が考えられるかを集めて、アップデートして伝えていてくれたことは、個人として状況に合わせて考えられるようになったり、近い人だからこそ言いにくい共通認識の変更について話しやすかったことを思い出します。

こんな風に、多くの人と同じように、どのようにしたら感染経路がつながらないかを考え続ける半年間で、気を抜いていても周りの誰かが、自動的に境界線を整えてくれるということを体験してきていませんでした。

だから看護師さんの力強い姿を見たときに、気を緩める時を一瞬もらったような気がしたり、頼れる人が目の前にいるような気がして、嬉しい気分になったのかもしれません。

(いつかは、こうして感染から守ろうとしてくれている医療従事者の方々にも、気を緩めてもらえる時間を作らないといけないですよね。)

 

手洗いの闘い

蜂がインフルエンザの予防接種をするために、処置室の注射台の前で待っていると、医師の手の洗い方の手順がとても素早く正確で、手洗いを終えてはまた発熱患者を迎えに行くところに遭遇しました。

この姿も蜂には印象的で、まるで戦っているかのように見え、手を洗うという行為が、ここまで鬼気迫るものになりうるんだと固まっていました。

 

実は蜂の手は今、かなり荒れています。

外出から帰った時はもちろんなのですが、そこに買い物が加わると、手洗いの工程はさらに複雑になります。

外から持ち帰ったものを家に入れると、その時点で一度手を洗い、袋から机の上に買ったものを平置きしたら、また手を洗って、買ってきたものを全体的に消毒をして、ペーパーで拭いたら、手にはアルコールがつき、買い物に使った袋を畳んだり、財布やカードや鍵などを消毒したら、また手を洗っています。
(※食品パッケージにウイルスがついている可能性は低いことも、買い物した商品の消毒を今もしている人がいることも、両方の考え方を聞いたことはあるのですが、私たちは、冷蔵庫や調理台に広がりうるルートや、ウイルスの生存期間など調理中に考えることが嫌なことと、面倒ではあるのですが慣れてしまえばそれなりに慣れ、思ったほどアルコールの量も必要ないこともわかっため、続けています。この作業を推奨する意図では記していません。)

ネットスーパーではなく自ら買い出しに出たときは、まず手を洗って、全着替えをしてまた手を洗って、となるので、これらの前にも手洗いの回数が加わります。

自分の手洗いの回数が多いのは、気を使いすぎなのか、要領が悪いのか、と手荒れを見ながら考えることもあったのですが、医師の手洗いの姿や、病院の消毒用品や手洗い石鹸の種類の多さを見ていると、もしかすると私たちはどちらかといえば、病院の感染対策に近い感覚なのかもしれないと思い始め、まだまだ感染対策に関して曖昧になっている部分もあるからもっときちんと調べて、理解しておくことが大事な気がしてきました。

迷いが少なくなれば、予想外のことが起きても対処できると自信がつくから、人に優しくなれるんじゃないかな、と先生の背中を見ていて思っていました。

ここの医院の看護師さんは注射が上手で、こんなことを思っている間にあっという間に終わっていました。
(そういえば、診察の時に先生が蜂の手荒れに気づいて「どうしたの?」と聞いてくださったり、聴診器を当てられているのに、蜂は息をしていなかったようで、先生に「深呼吸してくださ〜い」と言われたことを思い出します。)

 

消毒の闘い

帰るときには、玄関で受付の方がスリッパを全部出し、靴箱の一段一段とスリッパの一つ一つを、肩を揺らしながら、素早く正確に拭いているところに遭遇しました。

受付の方が、「スリッパを(そのまま)置いてていいですよ〜」と声をかけて下さったので、「すみません、ありがとうございます」と答えて病院を後にしたのですが、帰るときに、”すごいなぁ。きっとこの消毒作業って毎日のことだよね、あんなに素早く隅から隅まで消毒するんだ。。最近の自分の消毒作業は丸くなってないかな。。”と、受付の方の揺れる肩を思い出しながら、自分の方法を振り返っていました。

手順を一つ飛ばして、もしそこにウイルスがついていると、その後はひたすら院内に拡散することになるので、病院の方々の気の使い方は半端なく、この方々のおかげで病院に行ける安心感があることを実感していました。

多分帰るときの蜂の顔は真顔になっていたと思います。

それだけ医院の方々の対策は、鬼気迫るものがありました。

忘れたくない一日の出来事でした。

 

 

こんな風に、蜂の目に映っている忘れたくない世界を書いていると、奇しくも第3波の兆しが見えてきています。

まだまだアップダウンがありますね。

経済と医療は対極に捉えられがちですが、これだけ慎重な私たちの体感や動きたい方向を通してみても、世の中の動きを見ても、感染拡大が収まれば、経済も一緒に戻っていくような気がしています。

(と同時に、このコロナ禍で浮かび上がってきた、人のために陰でこんなにも頑張る人たちがいて、時にそうした方々の頑張りや善意に頼りきっている状況があることや、変化につなげていかなければいけない状況があることも忘れたくないし、忘れて欲しくないと思っています。
新自由主義という言葉と、そうした考え方が今行き渡っていることを最近知りましたが、使っていないものは削る、間は無駄にせず埋めるという考え方だけでは、立ち行かなくなっているのが今だと思います。
同じやり方を繰り返していては、これから先にどんな災害が起きても、同じことを繰り返すだけです。
考え方を変えて、現状とつなげていくには、どんな方針が考えられるのでしょうか。)

インフルエンザでも、発熱が収まった途端に、“治った!”と思って動きたくなるのですが、ほぼその後に熱のぶり返しが起こります。

だからとにかくまず治すこと。

今の状況をなかったことにはできず、そのための手立てを私たちは学んできていて、組み合わせていけば対処できるはずで、足りていない仕組みは早急に作っていかなければいけません。

コロナ後の経済も大事ですが、それはまだ2段跳びのようなところにあり、今は喫緊でここが一番大切なはずです。

蜂も、きちんと知ることで、強く優しくなれるよう、医院の方々に気づかせていただいたことを、まずは忘れずにやり遂げ、その他のことも変化に合わせて作り替えていこうと思っています。

 

(そして今、他の人の抱えているテーマや、話していることなど、色々なことを見ていてふと思ったのですが、もう限界かな、と思うくらい精神的にギリギリの苦しいところでも(もし物質的に困っている状況にあれば、我慢せずにすぐに行政に相談することが大切です)、自分の限界を超えて、丁寧に交わらなさそうな現状をつなぎ合わせていっている人がいることを知ると、心強いですよね。
そういう人がいてくれると、一人じゃない、って感じられて幸せですよね。
蜂自身ができていなかったことだから、その姿に助けられています。)

 

 

ビーレエションシップを探検!