「これ…」と指差すだけで、見せてもらうだけで

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コロナ禍によってマスクをつけることが日常となった日々が、変化を見せている最近ですが、
みなさま、いかがお過ごしでしょうか🤗

(久しぶりに書くと、なんだかモゾモゾしますね。おまけに、入力の仕方の要領がわからなくなっています💦。。)

 

インナーワールドワークの始まり

インナーワールドワーク(が普段考えていることを、ただ書き出すこと)は、パンデミックをきっかけに始まりました。

やがてフィードバックをいただいているように感じ、オープンエアフォーラム(SNSなどのデジタル技術を利用して、それぞれの好きな方法で、気づいたことを空に向かって投げ放ってみる方法。反応があるかもしれないし、ないかもしれない、という至極自由なスタイル)という形が朧げに取られるようになっていきました。

以前まちづくりのワークショップに参加していた際、内向的で熟慮型の蜂は、思いついた意見がまとまった時にはすでに翌日で、当然その時は自分は家にいて、周りには誰もいないので、どこにも持っていきようのないアイディアだけがぷかぷかと心に浮いている、という状況を何度も経験しました。

今思えば、それはボトルネックの一つですよね。

それを朧げな形で解消する方法の一つが、オープンエアフォーラムだったように感じています。(時を選ばないため←これ、内向型にはありがたいです🙏)

 

論理性

これまでのインナーワールドワークのカテゴリに属する記事は、割と論理的な雰囲気が漂っているのではないかと思います。

それは蜂自身の物事の捉え方の傾向が、どうしても反映されていると思います。
(主語を「私」と書かないことも、できるだけ物事を俯瞰的に見ようとする試みのように思います。)

(実はこの論理性は、20代の自分が手に入れたくてたまらなかった能力です。。あの頃の自分が今の自分を見たら、きっと「あなたは誰!?」という気がします。)

 

 

感情、個人的なエピソード、芸術

ところが、今も続いているウクライナでの戦争によって、蜂の論理性は崩れ、役に立たないことを身をもって何度も体験しました。

強い対立の中での論理は、時に状況の表面だけをなぞっていたり、時に物事の奥深くまでをつかみきれないために、綺麗事のようになることを学びました。

 

代わりに必要だったもの。自分の壁を壊して、出さなければならなかったもの。(蜂は内向的で、公で個人的な話をすることを好みません。)

それは感情であったり、個人的なエピソードでした。

一人の人間であること、一人の人間として存在すること、ともいえるのだと思います。

 

自分が戦地にいるわけでもないけれど、過酷な中では、
”何かを感じているけれど、何かを見ているけれど、何かを伝えたいけれど、頭も心も固まって、言葉が出ない…”、ということが何度もありました。

その時に助けてくれたもの。

それは、詩であったり、絵画であったり、音楽でした。

言葉が出ない時、身動きが取れないとき、血が逆流しそうになって、自分の精神を保つだけで精一杯の時、でも何かを伝えなければならない時、「これ…」と指差すだけで、自分の心の中で起きていることや自分の無意識を人に伝えられました。

また、「これ…」と見せてもらうだけで、心が救われたことも、何度もありました。

蜂は、20代は小説よりも実生活に役立つ自己啓発本を好んで読んでいたので、
詩や絵画、音楽というと、娯楽や生活の中でのゆとりのカテゴリーに入るような気がしていました。

そのため、色々なものがひっくり返る体験で、これが芸術の力なのか、と、深く思いを馳せるようになっています。

蜂自身も文章を書くので、創作の過程にも思いがいくのですが、
その瞬間に湧き上がった何かを、濃度を高めて完成させた作品は、
違う場面で誰かの心を映し出したり、時に代弁して救う役割を担うのかもしれない、と思っています。

 

”人間に対する理解”を深めるために

ずっと印象に残っている言葉があって、確かフロイトだったかと思うのですが(うろ覚えです)、
「芸術家は人間に対する理解を社会に向けて発信し、心理療法家は一人の人間に向けて還元する。
そのためフロイトは芸術家に嫉妬心をもった」と読んだ記憶があります。

強調したいのは、嫉妬心の方ではなく、”人間に対する理解”(自分の言葉で言えば、感じたこと、くらいのものですが)を、どの方向に向けて発信するか、という点です。

ウクライナでの戦争に関して、オープンエアフォーラムに伴走してきた身としては、
オープンエアフォーラムとは、芸術(既定路線がなく自由度が高いという意味での芸術)と心理の融合の場で、
心理(個人や集団内で何が起こっているかを、複数の立場と視点からできるだけ客観的に捉えようとしたり、メタ認知を働かせる機能)が場を保ち、その中で、芸術(詩、絵画、音楽など)が内容を深めたり、時に別次元へと誘う役割を大きく果たしている気がしていました。
(もちろん別の文脈で、過度に意図が働けば、芸術を使ったプロパガンダになるので、注意が必要です。)

その両者の関係は、論理では突破できない壁や、論理を使うことで余計にこじれてしまう場面を、幾分なりともふんわりと包んだように思います。

この(蜂にとっての)未知の感覚を、育てられるものなら社会の中で育ててみたい、と思っています。
(一人でできるものではないので、このような書き方です。)

 

量的調査と質的調査

起こっていることの内容を深めたり、時に別次元へと誘うことは、芸術の質的側面のような気がします。

それには、それを表現可能にする方法であったり、人に届ける方法など、物質的、量的な側面も必要です。

よく量的調査と質的調査の話になると、両者は対立するのですが(企業でも)、これも”未知の領域”では、両方が必要になると感じています。

どっちも大事で、どっちにも居場所がある、そう感じています。

ただもう少し細かく観察してみると、これまでの現状では、量的調査(データに沿う方法)がメジャーでした。

質的調査(個人の感想、エピソードなど)の肩身は狭く、その価値は低く見積もられている気がします。

これからは質的調査の重要性も高まってくるのではないかと感じています。

 

それはどうしてでしょうか。

量的調査は、結果や傾向を見つけることが得意です。

質的調査は、何かを生み出すためのマグマの源を見つけることが得意です。

マグマ(熱量)が枯渇しては、結果も傾向も起こり得ないからです。

(ちなみにウクライナでの戦争に伴うオープンエアフォーラムは、自由度が限りなく高い、質的な方法での進め方でした。)

 

 

“新しい時代”に大切なもの

“新しい時代”では、現実に形作る方法や、届け方に加えて、
マグマ(熱量)の育て方、それぞれの場所にいるみんなの熱量をつなげる方法(の開発)も大切になってくるのではないかなぁと思っています。

いずれにせよ、命を、エネルギーをつないで、傍を楽に、幸せにしていきましょう。

楽しみですね。

 

 

 

 

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