前回の記事「本質を見つけるために」はオープンな質問で閉じて、しばらくそのままにしようと思っていました。
だけど、いくつかの気になることがあり、もうちょっと掘り下げるように今集中しています。
(数日前のお昼に、ふと窓の外を見ると、ベランダの端にカラスが一瞬止まりました。
カラスは次に向かう先をずっと見つめていて、方向を変えるために瞬間的に止まったようでした。
その時蜂は少し驚いたものの、取り立てて気にしていなかったのですが、
もし、ここでもあちらでも、同じようなことが同時に起こっていたのだとしたら、ちょっと慎重に捉えてみる必要があるようです。
とはいえ、それでもまだ書くのをどうしようかなと二の足を踏んでいたら、真下が震源地の地震が起こりました。
気持ちの持ちようだとは言いますが、
内心では、“わかった!もう降参です…!時が過ぎる方が早くて後悔するのはもうたくさんだからやります。”と白旗をあげていました。
時間は一番の敵であり、翻って味方にしたいものです。)
「本質を見つけるために」の記事では、最近気になったものをリストアップしました。
その中で一番重みを感じていたのはどれだったでしょうか。
それは、映画「ネバーランド」でした。
ではどのシーンが心の中に蘇ってきていたでしょう。
それは、ピーターが劇の台本を書いたノートを破るシーンでした。
ピーターはお父さんを病気で亡くしています、
「近いうちに釣りに行こう」と言われて、楽しみに準備していた翌朝にお父さんが亡くなったため、
それ以来ピーターは想像することを拒み、他の男の子よりも早く大人になった感じがある男の子です。
でもジェームズ・バリに出会い、少しずつ想像する心を取り戻し始めます。
バリはピーターに劇のシナリオを書くためのノートを贈りました。
ある日、ピーターのお母さんが嫌な予感の漂うせきをし始めます。
ピーターは過去の経験から、お母さんが亡くなってしまうのではと勘づきます。
自分の不安をよそに、大丈夫だとごまかす大人達に怒りの感情が爆発し、兄弟たちと作っていた劇を壊し始めます。
その物音に気付いたバリがやってきて、バリはピーターの様子を何も言わずに腰かけてみつめます。
蜂が初めてのこの映画を見たときは、仕事で子どもたちの喧嘩の仲裁に入ることが多いときでした。
ピーターのお母さんのように話を聞くことはできるけれど、ドンと構えることはできずにいる自分に引っかかっていました。
そのためピーターが怒りを爆発させて、話し始めるまで待っていたバリのようになりたい、と当時は思っていたのです。
バリは男性ですが、彼の中に母性的な強さを見ていたのだと思います。
あの映画には他にも大事な要素はあるのですが、このシーンも今でも大事な場面です。
今はどういうわけか、ピーターに感情移入しそうな気がします。
自分の感じることをビリビリに破ってしまいたいような、変な感じです。
だけどもっと細かく見れば、注意を引きつけられるのはピーターの台本帳です。
それに感じるものを強調してみると、こんな感じでしょうか:
“深いところに眠る夢や希望や勘を、信じてみてください。
問題を含めて、自由に思うところをノートに書いてみてください。
破られてもまたつなぎ直されるノートに、どんな世界を作りあげたいですか?”
(パンデミックは全大陸を覆っていて、こんな状況はそう起こるものではなく、
多かれ少なかれみんなが同じテーマを抱えている状況だと思います。
私たちは別々の場所にいるかもしれないけれど、継続的に大きなフォーラムが毎日開かれているような感じもしています。)