きらきら光るものを追って

shimmering light on the water's surface

 

最近は、片側の立場にはっきりとつく、ということを人生で初めて、表立ってしました。

自分を守るということは大事で、そのために自分の立場を決めることも大事だと思っています。

それが悪いことだとは思っていません。(中には、はっきり言わないと本当に伝わらないことがあることも学びました。)

でも、もし問題が生じるとすれば、立場を決めたことが強い磁場となって、見過ごされやすいけれど、本来の大事な磁場を忘れてしまうことかもしれません。

今の時点で、「裂け目の拡大」を振り返ることはできませんし、することもありません。(物事の混乱は今も現在進行形で起こっており、その状況や、自分自身を客観的に見続けてようとしているためです。)

それでも、力を緩めることができたのは、ある方々の存在感のおかげだと思っています。

(これまで読んでくださっていた方で、現在も現場で必死に闘っていらっしゃる方が、これを読んだら、嫌な気分になるだろうと思います。
伝わるよう願っているのは、今の自分の立ち位置からこれ以上叫んでも、構造的に無意味な状態に入ったと思っている、ということで、現在の状況の影響が最小で済むように願いながら、状況を見ている一人であることには変わりありません。)

 

 

二人の方の中に見た、輝く光

どうしてそう思うようになったのでしょうか。

それは、荒れ狂う嵐の外で、家の感覚と、中道を体現している方の存在を見かけたからです。

 

 

家という感覚

一見、振る舞いの凛々しい女性が、穏やかな口調で、とても落ち着いて、「この社会の中に、家という感覚がある」ということを話しているのを偶然見ました。

その存在感は、蜂が守られているように感じさせてくれて、張り詰めた気持ちを溶かしてくれました。

例え、その人のいる社会に、直接的に自分が入っていなくても、です。

 

その守られた感覚というのは、暑い夏の日に、祖母の家の縁側で、
汗のかいたグラスを持って、冷たいお茶をぐいっと飲み干した感覚に似ていました。

 

Summer sky

36℃ !

 

engawa

祖母の家の縁側と、とてもよく似た写真を見つけました。
今はもうないこんな場所が、すごく好きでした。

 

 

condensation on galss
Photo by ガイム. photo AC

汗のかいたグラスに入った、冷たいお茶。
暑い夏の日に、簾のある縁側の日陰で、冷たいお茶を飲み干すのは最高です。
蜂の思い描く、家の感覚をまさに現した一枚です。

 

縁側で思うのは、

“今日も暑い!

学校に行ったり、仕事したり、家事をしたり、

今日、外ですべきことは全部終わった!
やっと縁側でお茶を飲んで、畳の上で寝っ転がれる。
あぁ、夏の幸せよ。。

 

 

 

今も現場で闘っている方を思うと、こうしたことを書くことも気がひけるのですが、
パンデミックと国際的なイベントの間で、深みを増す暗闇を薄くするためには、
家という感覚が必要なことだったのではないだろうか、とうっすらと思い始めています。

 

 

禅の公案

蜂が力を緩めるきっかけとなった、もうお一方がいます。

「何が永遠なるもので、何が一瞬のものか?」という意味ではないかと(蜂が)思う、禅の公案を用いて、場を抱える存在感を放つ方でした。

その存在感のおかげで、蜂は一歩下がって、見過ごしがちな弱い磁場を見よう、という気持ちが戻ってきました(もちろんすぐにそれができたというほど、できた人間だったわけではありませんが。。)

ハッとする驚きと光を伴って、物事の見方を変えるきっかけをくれる公案は、自ずと静けさをもたらしてくれます。

最近中国の歴史ドラマを見ているのですが、その中でよく古代中国の教訓が出てきて、しばしば考えさせられます。

禅の公案や古代中国の教訓のすごいなと思うところは、たとえ初めは葛藤を抱えたもの同士であっても、同じ場に足を踏み入れられるだけの広いフィールドを広げられるところだと思っています。

そしてふと思い出したのが、かつて蜂が経験したことで、
あるエジプトの人が、その場で何が起きているかを見て、すぐに、エジプトの女神を連想したことでした。

その時蜂は、”果たして自分は、自分の国の底に横たわる精神性や、禅や仏道の話や教訓をどれだけ知っていて、然るべき場面に遭遇した時に、それを伝えられる力があるだろうか”、と考えたことを思い出しました。

そして”それに向けてちゃんと何かをしているか?”と自分に問うと、ご想像の通り、答えは「まだまだ」です。

 

最近、自分がずっと好きだったお寺や人物が、別の側面を持っていて、その気づいていなかった側面も大事になりつつある、ということをよく経験しています。

こうしたことをちゃんと自分の中に取り込んで整理するには、水の下に潜るような時間が必要になるんだろうな、と思っています。

 

 

きらきら光る水面の下で

上記の方々のように、蜂の心の中には、輝く光を放つ方々が、いろんな領域のいろんな国にいることを感じています。

もどかしいのは、自分に、そうした方々と(ひとまずは妄想の中だけであっても)関われる力が弱いことです。

引き出しが少ないというか、物事が適切な形に区切られて整理されていないと言いますか。。

もしもこの先に行きたいと思ったら、水の中を泳ぐように、もっと自由に学んで、遊んで、という作業が必要になってくるだろうな、と感じています。

例えばビーレエションシップにも、「人間科学」と「工房」という二つの枝がありますが、一見全くの別物に見えがちなそれらを、もっと滑らかに交差させたいなと考えています。

(星野源さんの「創造」にも「コウアン」という歌詞があって、その漢字はどちらの意味かなと思って調べたら、「考案(工夫)」の意味だったのですが、まさにあの歌のようなイメージです。)

その先に、家の感覚を反映した、実践的な仕組みができるような気がしています。

 

 

beneath the water's surface

 

 

 

 

ビーレエションシップを探検!