2021年8月27日の空!
毎年8月になると自然に、太平洋戦争の教訓に意識が向かっていました。
(昨年は、沖縄戦が始まった3月末から意識が向いていました。)
ところが今年はどうも様子が違っていて、
6日、9日、15日に、ニュースなどで耳にするまで、自然に思い出さずにいました。
そのことにふと気づいたのは、先日の日曜日、お昼に蕎麦をゆでた時のことでした。
茹でたお湯の入った鍋を持つ手がグラつき、
お湯の一部を足の甲にこぼしてしまい、火傷をしたのです。
幸か不幸か、靴下を履いていたために、
数秒ほど、お湯が染み渡った靴下が肌にくっついたままになっていました。
お湯をこぼして1秒たって、
”…? 何か、、熱い‥?”
と感じてから、慌てて靴下を脱ぎ捨てたものの、
脱ぐまでの数秒間は、お湯の熱を伴う生地が、皮膚に張りつく痛みを感じていました。
その後、治療中に、
“たったこれだけ(足の甲の6分の1)の火傷でも、
こんなに痛くて、赤みは引かないし、氷を外しても、歩いてもと痛いということは、
原爆の熱線を受けて、衣服が皮膚に張りついたり、
衣服が溶けて皮膚と混ざったというのは、どれほどの痛みだったんだろう…”
と、想像を巡らせたのが、
2021年に初めて、戦争の教訓に意識を向けた出来事でした。
(この出来事は、”炎の扱い方を学びなさい”と言われたように感じた、火災報知器の誤作動の出来事からちょうど一週間後のことで、踏んだり蹴ったりな日曜日が続きました。)
災害時のリーダー、災害を無意識に引き起こすリーダー
火傷の治療をしながら、
”この火傷の痛みがあって、今年初めて、戦争の教訓にきちんと意識が向かっている。”
ということに、はたと気づくと、
“どうして今年は、いつもと違うのだろう、自分の意識が薄れたのかな。”
と、ぼーっと考えていました。
すると、心の中から、
”ううん、違う、忘れてない。
パンデミックは戦争ほど悲惨ではないにしろ、
今が、戦争の教訓に通じる状況だから、
例年よりも、もっとより身近に、
肌にせまって、戦争の教訓を感じているからよ。”
という答えが返ってきました。
考えてみれば、取り立てて意識していなかったものの、
瞬間的に、下のようなことが思い起こされては、
泡のように消えていくということを繰り返していました。
”この番組って、プロパガンダに近いものがあるのではないだろうか。
国として期待する方向に物事を押し進めるために、
希望(的観測)や明るい話題を振りまいて、
本来伝えるべき実情のニュースを少なくするという、
何らかの意図が入っているんじゃないだろうか。”
とか、
”(太平洋戦争末期に、
連合軍による未遂のオリンピック作戦や、
沖縄戦や鹿児島上陸の動きがあったことを思い出し、)
有事の際に司令部の人は、安全なところに身をひそめて、
自分たちは物資の困窮に陥ることもなく、最前線の部隊に司令だけを出す。
それを受けて、十分な物資もない中、計画を実行させられて、切り捨てられていくのは、
組織でも、土地でも、末端の(とみなされた)人や場所。
これは、当時のことだけではなくて、今も同じパターンが起きている気がする。
積み残された課題をスルーして、希望的観測だけで物事を実行し、
その結果引き起こされた、大きな混乱の尻拭いは、
現場に丸投げ。
言葉だけの要請をするか、自分の“いつもの箱”から出ずに、言い訳ばかり。
似たもの同士の狭いグループで、物事を決めているんじゃないだろうか。
物資の確保はある程度行っていると思うけれど、それでも十分ではなく、
先見の明や、意見の集約といった、実質的な支えの機能は全く果たしていない。
今も、作り上げられた華やかなムードの裏で、同じことが起こりつつあるのではないか。”
とか、
“(東京裁判の様子を思い出し、)
陣頭指揮を取っていたときには、
勇猛果敢に見え、取り巻きも多かった人物が、
いざ、国際裁判の証言台の公開された場に立つと、
(その人なりの言い分はあるにせよ)ただ、言っていることに脈略がない人物だった、ということが露呈されたことがあった。
他にも、
Bを認めると、(自らが決定した)Aという判断が誤っていたことを認めることになるため、
ますます回答が奇妙なものになる様子もあった。
多くの人を死に追いやったり、苦しめる決断をした人でさえ、
自分の存在や判断を善だと信じたい傾向があるのか、
戦後に大衆からのバッシングが激しくなったときには、その主張を抑えて隠遁生活をしていても、
晩年には再び、「自らのあのときの判断は正しかった」と周囲に手紙に書いて送ったという人がいた、という話を思い出す。
本人の認知的不協和が強くて、
それを補うために、根本を解決しないまま、さらに上に物事を塗り重ねると、
周囲はだんだんその人に手をつけられなくなっていく。
リーダーの役割につく人に、そうしたことが起こっていると、
周りにいる人が不幸になるだけでなく、
周囲に与えた悪い影響が大きいほど、
当人にとって、認知的不協和の度合いは強くなって、耐え難いものになり、
一人でいる時に不快な気分をもたらす、突き上げるような居心地の悪さは、生涯続くのかもしれない。
それを超えるのは、周囲からの圧力ではなく、
時間をおかずに、自分の心の中で、すぐに整理されるのが理想だけど、
当人がその状態を無視し続ければ、自ずと物事が周囲から起こり、その役割から追放される。”
こうした思いが、瞬間、瞬間ではあったけれども、
比較的、継続的に湧き上がっていたため、
8月になっても、改めて、戦争の教訓へ思いが至らなかなったような気がしています。
目立たず、無視されがちな、家の感覚という磁場
現在のようにコロナ禍で、
かたや国際的なイベントを決行したい、
かたや現状についていくことで精一杯、
という、両極化した状況を、
家族に当てはめて、兄弟がそれぞれの立場にあるとした場合、
親ならどうするだろうか、と考えていたことがあります。
(もちろん政治家は国民の“親”ではないのですが、
特定の集団の中で、時に権威を行使して、物事を決めていく立場に置かれるという意味では、幾分重なる点もあるように思いました。)
そして、蜂が幼稚園の頃、
家族でそうした事態に陥っていたときのことを、ふと思い出しました。
(ここからは、父に了解をとって書いているのですが、)
若かりし30代の父は、三ツ沢競技場で冬の夜に開催される、サッカーの試合のチケットを持っていたそうです。
一方で家では、蜂の兄弟は風邪をひきかけていました。
若かりし父は、小さかった蜂に、「サッカーの試合に行きたい?」と尋ねると、
小さい蜂は、夜に出歩く非日常感にワクワクして、「行きたい!」と言ったそうです。
母はもちろん、風邪をひきかけている蜂の兄弟に付き添い、家に残ります。
そして母は父に、「冬に子どもを連れて歩くと、風邪をひかせてしまう」と、懸念を伝えたそうです。
それでも若かりし父と小さい蜂は、出かけました。
小さい蜂が、冬の夜のサッカー観戦で覚えているのは、
スタジアムの椅子に腰掛けている時に聞こえた、周囲の“わぁ〜”という歓声と、
遠くで小さく見えるサッカー選手が動く様子、
そして母が着せてくれたであろうダウンジャケットがもこもこして、両手が体から浮いているような感覚でした。
試合を観戦している途中で、心がワクワクするという感覚はなく、
どちらかというと夢見心地のような、雲に包まれたような、ふわふわした感覚でした。
帰りに駅で、若かりし父は「シューマイを買って帰ろうか」と小さい蜂に言いました。
小さな蜂は、よく考えることもなく「うん」と言った記憶があります。
この頃になると、母や兄弟が一緒にいなくて、
心に隙間風が吹くような一抹の寂しさや、
夜歩きは、非日常でまぁ楽しかったけれど、
いつも味わっている楽しさに比べると、全然及ばないことを感じていました。
一番記憶に残っているのは、家についてからです。
父が玄関の扉を開けると、部屋の中が真っ暗です。
こんなことは初めてです。
母はいつも家で迎えてくれ、
決して、どちらか一人の子どもを置いて、先に寝る人ではありません。
その後の人生でも、一度も、です。
部屋に静かに入っていくと見えた、あどけなくスースーと寝息を立てて寝る兄弟の寝顔が、
平穏そのものであったことが記憶に残っています。
母は二人が帰ってきたことに気づき、起きて、台所へやってきました。
父は母に「シューマイを買ってきた」と言って、小さな蜂の頭の斜め上で、母に差し出しました。
母は静かに低い声で、「冷蔵庫に入れておいて」と答えていました。
子どもながらに、「お母さん、怒ってる」とわかったものです。
もし母が、父と同じ感覚で、冬の夜に遊びに行くことになんの疑問も持たなかったり、
ただ単に、「すでにチケットがあるなら行ってくればいい」と、
同時に起こっている他の状況に目を配ることのないような考え方の人だったら、
もし小さな蜂に、風邪をひかないように、しっかりとダウンを着せてくれていなかったら、
もし夜に出歩くことは、子どもに風邪を引かせかねないことを父に伝えてくれていなかったら、
今の蜂は、違う人間に育っていただろうな、と思います。
最近父に、この時のことをよく思い出すと話し、
「今のお父さんだったら、どうする?」と尋ねました。
すると、「あの時は、あなたも行きたいと言ったよ」と一度は抵抗を示しながらも、
「今だったら、行かないだろうね。風邪をひきそうな兄弟がいることに目を向けたと思う。
世話をするお母さんにも。」
と話していました。
そして二人で、
「今のお母さんだったら、行ったらだめってはっきり言うやろうね。
お母さんも、曖昧に言う時代があったんやね。」
と話しました。
父を散々に書いてしまいましたが、
父はこんな感じで、父権主義的なところは全くなく、
自分のミスであったとしても、一度腹に落ちた出来事であれば、
そのミスに触れられることに大きな抵抗はないような人です。
「何度もこの時の出来事を思い出すから、この出来事を引用してもいいかどうか」を尋ねたとき、
文面に音符付きで「いいよ♪」と、許可してくれました。
身の安全 vs.物事と人の動き
このように、身の安全と物事の動きが対極に来る事は、しばしばあるようです。
このコロナ禍でも、
感染すれば重症化するタイプだろうなという予感があったり、
ワクチンにもアレルギーを起こす可能性がある人にとって、
感染を引き起こしかねない動きには、命の危機を感じます。
一方で、人々の動きと生業が密接に関わっている場合、
生業の流れがスムーズにいかなくなることも、
胃が痛くなるような、命の危機を感じる事態です。
それを口に出しづらくなって、一人で抱え込むと、なおさらです。
でも、経済的な意味でも、健康的な意味でも、どちらにも共通しているのは、
「身の安全」ということなのかもしれません。
身の安全と物事の動きが対極になる状況から引き起こされる対立は、
辺野古で起きていることの底にも、流れているのではないかと思っています。
辺野古基地が存在することによって、
騒音問題、落下物問題、米軍兵問題が起こって、島の人の安全が脅かされたり、
一方で、基地の存在と生計が絡み合っている世帯もあり、
基地がなくなれば、収入源が絶たれることへの恐れもあるのだろうと思います。
こうした違いが、近所や親戚の間にある場合、
「このテーマを考え始めれば、顔を合わせる人との関係が変わり、
立場が違う隣近所との会話がなくなり、親戚づきあいも変わっていて、
『それが嫌というよりも、もうつらいのだ』、
『取材のカメラに向かって大きな声で叫びたい気分よ』」
という状況になるのだろうと、以前よりもリアルに感じます。
パンデミックと辺野古というテーマの大きな違いは、
時間がどれくらい経過しているのかということと、
直接的に巻き込まれる人数があります。
コロナ禍の1年半という期間はすでに苦しいものになっていますが、
辺野古のテーマは、それよりも、すでに長期間に渡っていますし、
辺野古のテーマは、パンデミックのように、全世界の問題と捉えられるよりも、
地域の問題、という捉えられ方が強いように思います。
繰り返しになりますが、個人的にはパンデミックを経験して、
あの時番組を見ただけでは、ここまで腹に落ちてこなかった、
身近な人との断絶の辛さを、
今はもっとリアルに感じるようになっています。
身近な人との立場や恐れるものの違いが、関係に亀裂を生み、
個人で解決できる範疇を超えたまま、
気づかれずにそのまま放置されていること、
それも辺野古のテーマなのかなと、つくづく思うようになっています。
そしてふと、沖縄の同じ世代くらいの方が、
「重くのしかかるものをずっと感じているように、うなだれながら、時に顔をあげて話していた」姿を思い出します。
身近な人との間での継続的な断絶ほど、心を重くするものはありません。
(沖縄の基地問題を考えたときに、
なぜ基地があるのかという歴史的観点と、
現在の防衛の問題を考えた時、
その先に見えてくる国があることに気づかされたことを思い出します。
そして妄想の世界で勝手に、ひとり王国のひとり防衛大臣になった時、
“国を守るって、実はかなり怖いことなんじゃない?”と思った日のことを思い出します。)
沖縄の人の間の断絶を、緩やかにほどくものは何なのか。
外から見ている蜂には、これといった答えは分かりませんが、
ここでも弱い磁場、例えば奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島が世界遺産に登録されたように、
土地が本来抱え、誇れるものに、焦点をずらしていって、
基地問題よりも弱いとみなされる磁場に力を注ぐことで、
新たな流れができないものかなぁ、と願ってしまいます。
(日本は世界の中でも、女性性の強い国のように感じていますが、
その中でも沖縄は特に、女性性の強い土地のように感じています。)
だけども、弱い磁場に焦点を当て続けることは、相当の精神的な集中がいることも感じています。
元特攻隊員の千玄室さん「世界平和へ 茶の心一滴」
そんなことを考えていたある日、毎日新聞の一面に、
元特攻隊員だった千玄室さんのインタビュー記事「世界平和 茶の心一滴」が掲載されていました。
(同じ内容は、有料記事になりますが、ウェブサイトにも掲載されていました。
毎日新聞.「元特攻隊員の裏千家前家元(その1) 争いない世、茶の精神で」2021年8月22日.
毎日新聞.「元特攻隊員の裏千家前家元(その2止) 仲間の死、何のために」2021年8月22日.)
千玄室さん(98)はこう語りました。「仲間は何のために死んだのか。今も嫌な思い出から逃れられない。お茶の精神で戦争をなくしたいのです。私の遺言です」。 https://t.co/DIiUk5uiyk
— 小川一 (@pinpinkiri) August 21, 2021
たいてい新聞各紙の一面には、
昨日の出来事の中で、一番大きなニュースが来ること多いですよね?
そんな中、じっくり読む記事が一面に来ていることが意外な気がして、
中身を折り返しているのかな?と思わず確認したり、
「んっ!?」と、亀のように首が伸びたほど、そのレイアウトには驚きました。
詳しい内容は記事をご覧になっていただきたいのですが、
この記事を読んでいるときに、
千玄室さんの戦争に対する怒りのようなものが、文字にのって伝わってくる気がしました。
そして、勝手な想像ですが、そのお姿に、
奈良県吉野にある金峯山寺の金剛蔵王大権現をふと思い出しました。
(金剛蔵王大権現については、
うましうるわし奈良「蔵王権現─魔を破る、青き異形の仏」(2021年8月27日アクセス.)にも、詳しい説明がありました。)
金剛蔵王大権現や不動明王の、怒りを持って民衆を救うというあり方は、
時に、優しさだけでは答えを出せないときに、世界を補完する姿なのかもしれません。
知覧特攻平和会館での祖父の涙
そして特攻と聞くと、蜂は鹿児島を思い浮かべるのですが、
千玄室さんの仲間の多くが飛び立った飛行場も、鹿児島だった、
と読んだときに、
蜂は、祖父を思い出しました。
蜂の祖父は、生前に、知覧特攻平和会館を訪れた際に、
遺影や特攻前の遺書が展示されているコーナーで、一人たたずみ、
涙を流していたそうです。
(知覧特攻平和会館のオンラインミュージアムがありました。
このおかげで、すぐには行けなくても、またあの場所の空気を思い出せます。
特攻出撃直前の実際の手紙から伝わってくるものに、心臓がバクバクし、血が逆流しそうになりながらも、
一人一人の手紙を読んだ時のことを思い出します。)
千玄室さんの雰囲気とどこか重なるところがある、昭和の男の厳しい雰囲気をもち、
あるものでいろんなものを作れる豊かさを教えてくれた祖父です。
祖父は何を思って、涙を流したのか。
その場に行き、祖母からも話を聴いて、わかってきたことは、
祖父もまた特攻兵に志願して、鹿児島の知覧へ訓練に赴き、
少し年上の特攻兵が出撃する際に、彼らを帽子を振って見送り、
自分は一歳年齢に満たないために、出撃することはなかった経験を持つということでした。
祖父にとって、知覧は、戦争を肌で感じながら降り立った、胸に刻まれている忘れられない地であり、
知覧特攻平和会館に掲げられている一人一人の遺影は、
若い世代にとっての、特攻兵を悼む、忘れてはいけない歴史ではなく、
間近で見た特攻兵への憧れ、海に散っていった少し年上の彼らを失った無念と悲痛、
自分は戦闘機に乗って出撃できなかったじくじたる思い、
そしてその後わかってきた特攻の悲惨さなど、
あの時代の感情を思い出させるものだったのかな、と想像しています。
そんな思いを秘めながら、孫を可愛がってくれた祖父の気配を、
下の写真の、寿司のネタの漢字が詰め込まれた湯呑みや(親戚からの分けてもらった八女のお茶を飲んでいました)、
定年後に、美味しいお茶を飲みたいと訪れた街のお茶屋さんで、抹茶茶碗を用意し、家で抹茶を点てていたときに、
そばにあった茶道具箱に感じます。
(実はその茶びつは元々は、祖母が自分の仕事のために、自分で用意した嫁入り道具だったという話が、詳しく聞いているうちに飛び出したりして、
家族でも、ちゃんと聞かないと知らないことがたくさんあるなぁ、と仰天する日々です。)
どちらも祖母が刺繍した花ふきんがよく似合っていて、
なんだかんだありながらも、
ものづくりでは一緒に手を動かしていた二人の姿が、写真に現れているように感じます。
そして、お茶が美味しい、ということを、生活の中で自然に教えてくれたのも、祖父母でした。
抹茶の“アクセル×ブレーキ”感、煎茶の“半眼”感
千玄室さんのインタビュー記事を見たときに、もう一つ思い出したことがありました。
最近の一連の記事は、ある一定の波長から外れないように、集中して書いたのですが、
この途中で、心の中で繰り返し出てきていたのは、
なぜか、“抹茶フロート”でした。
その抹茶フロートとは、
小学生の頃の土曜の午後に、
地元の商店街のお茶屋さんの一角の、ハイカウンターテーブルで、母と一緒に食べたもののことで、
書いている途中で、それを食べたくて仕方なかったのです。
理由は、なんとなく感じていました。
一連の記事の内容が見えるまでに、
目標とする境地はどこか、目標とする波長は何か、一体何が抽出されるのか、
が、自分でもわからずにいたときの、
動き出しそうで、動けない、動けるけど、動かない方がいい、
という微妙な揺らぎの中で、
自分の心の動きや、衝動を観察し続けていた時は、
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような時間でもありました。
一年くらい前に、抹茶の生産者の方が、
「抹茶には、アクセルとブレーキのような、両方の成分が入っている」と話されていたのを偶然に聞いていたので、
あの時の波長と、抹茶の成分というのは、似ているのかな?と不思議に思っていました。
かつて小学生の時に抹茶フロートを食べたときに感じた、
程よくリラックスしながらも、全体に目を配り、
「いつでも動き出せます!」
と言わんばかりの、土曜の午後の冴わたる感覚が、抹茶ソフトが好きな理由の一つなのですが、
この感覚も、先の話と照らし合わせると、
あながち的外れではなかったのかもしれない、とびっくりしたことを思い出します。
そんなことを思いながら上記の一連の記事を書いていたのですが、
この時は、核となることだけを抽出して残そうとしていたので、
抹茶フロートにまつわることは削除しました。
千玄室さんの茶道のレベルとは、比べるにも及ばない話で、
これ以上蜂を叩いても、お茶のことに関しては何も出てきませんが、
こうした些細なことを、きちんと拾い上げておくときかなと思ったのです。
一方で、これと比較して思い起こされるのが、
煎茶を飲んだときの、
目の横に水平に、ピーンと白い糸が一本張られるような感覚です。
蜂はどうも、精神的にぎゅっぎゅっと締めつけられて、ピークを超えてふわっと緩むときに、
美味しい煎茶を飲みたくなる傾向があるようなのですが、
そのような時に、上記の感覚が生じるのを感じています。
(普通の状態で飲むと、「いい旅館に来た!」という感じがして、
背筋が伸びるような禅の空間で、(足を投げ出して)リラックスしているような状態になる気がします。)
糸が水平に張られる感覚というのは、
半分は外界を見渡していて、半分は自分の内面を、同時に見ているような感じです。
この時思い出すのが、仏像の“半眼”です。
決して自分が仏像だということを言いたいのではなくて、
”仏像のある暮らし「仏像はなぜ半眼なの?」”によりますと、
“半眼”と言うのは、「心を静めて乱れず、集中している状態」だそうで、
まさにこの状態に近くなるのではないか、ということを思っています。
そういう状態になると、何が起こるかと言いますと、
例えば、散らかっていた部屋の中で、それまでワタワタしていたとしても、
何を片づけると良いか、どこに片づけるとよいかが、
不思議なくらいスーッと見えてきたり、
神経が逆立って全く眠れなかったのが、自然と眠たくなったりします。
(前に出てきた、金剛蔵王大権現や不動明王の、怒っている目とは違う眼の状態がある、という点も興味深いです。)
そうした感覚が、抹茶とはちょっと違う、という点も興味深いです。
抹茶と煎茶では、
(蜂にとっては、全てを見渡して抱える波長だとしても、)その周波数は微妙に違うのでしょうかね。
自分の身の回りで起きていることの全てを、あまねく抱えるというのは、
何をどうしたらいいか、なかなか見えにくい、という意味で、本当に難しいし、
ちょっと気を抜くと、どちらかに力が偏ってしまうため、
精神的な集中が必要な作業だと感じています。
もちろん、お茶を飲まなくても、
その状態に入るように意識の使い方をコントロールしたり、
特定のインナーワークというものはあります。
だけど、飲むと、その波長とよく似た状態になることがあるのが、
抹茶と煎茶のような気もしています。
そうした波長は、理解できないものを、少しでも感じ取れるようになるために、
今の状況を一旦忘れる、力を抜く、自然に身を任せることで、
次にどんな物事が自然に起こるのか、を見つけるのを助けるように感じています。
この波長や段階なくして、本当の意味で、物事がスムーズに流れる段階へは行けないように感じていて、
次の段階となる、物事がスムーズに流れたり、人と人の本当の信頼関係が結ばれる段階を「平和」というのなら、
抹茶や煎茶の波長は、「平和」の一部で、「平和」への周波数だという気がしています。
煎を重ねるに応える茶葉と、引き出す空間
「いい旅館に来た!」と思い起こさせるようなお茶を飲む楽しみの原体験は、
実は、中国茶(台湾茶)でした。
平次と二人で中国茶のお店で手解きを受け、いくつか茶器のセットも用意したことがあります。
凍頂烏龍茶の甘い味や、
プーアール茶のクセのある味だけど、お腹がガコガコと動く感覚、
茶盤の上で湯気が立ち上り、体が温まってゆるみ、
話すことの深みが増すのも好きでした。
ところがだんだんと、
準備する茶器の数の多さと、時間の取れなさ、
間違いなく美味しいといえる茶葉の調達の手間が影響してきて、
その習慣は消えていきました。
一度は一念発起して茶葉を探したのですが、
煎を重ねるに耐えられない茶葉で失敗したり、
そうなると、自分はお茶の何が好きなのかも、だんだんわからなくなってきたりして、
せっかくできていた生活の枠が、押し潰されていきました。
そんな中、日本にも、煎を重ねるに応える茶葉があると知ったことは、本当に嬉しい発見でした。
一煎目、二煎目は、ごくごく正統に美味しくて、
(蜂にとっては)「いい旅館に来た!」という感じになり、
(ここからの話は、本来のお茶の一滴を外れているだけでなく、あまりに日常なので恥ずかしい限りですが、)
煎を重ねて、もう出ないだろうという頃になったら、
急須の中でミネラルウォーターに浸しておくと、
お風呂上がりに、通常の水を飲むつもりでいたのが、
ミネラルウォーターよりも、もっと丸くて、まろやかで、ほのかないい香りがし、
より飲みやすい水になり、
それが意外と自分は好きだということにも気づきました。
お茶を自然に思い起こし、そんな一連の流れを実行した日は、
1日の流れがすごくよかった、という結果に終わる日も多いです。
(それを狙うと逆効果になるのが、切ないところですが。。)
そして穏やかに眠りにつけるというのも、蜂にとっては大きなポイントです。
個人的には、煎を重ねるに応える茶葉から出るお茶は、
最後まで、左右対称の綺麗な波長を描くような気がしています。
胃が痛くなったり、雑味のようなイガイガした波長を感じないのも不思議です。
「煎を重ねるに応える」ということは、中国茶の茶葉から考えても、相応の価格がします。
だからこそ、どこから調達すると間違いがないのか、とか、
ピアノの調律のように、味のチューニングとなる基準を自分なり持っておいたり、
自分の生活の中のどんな時に、そうした茶葉を活かしきるのか、という流れを自分で作っておくことは、
消費者の感覚からしても大事な気がしています。
そこを超えたら、生活の彩りが増したり、
そうした経験を積み重ねることで、
お茶の味が、家の味や家族の歴史の一部になっていったりするのではないかな、と感じています。
(実は、新聞記事の切り抜きとお茶を入れる途中の写真には、裏話があります。
火傷をした後、伊都に
「(火傷の治療は)針を火で炙って、水膨れをつぶした方がいい」ことや、氷をずっと巻いておける方法を習った後、
「ちょっと涼しいから、今日は、熱いお茶を飲もうか」ということで、
「何にする?ほうじ茶にする?」と話していると、
伊都がテーブルの上の急須を見て、「急須が出てるね」と言うので、
桜餅の葉っぱの香りがするというお茶を、ゆっくり丁寧に淹れることにしました。
この時、伊都が以前に飲んだ味を覚えていてくれて、自然に思い出してくれたことが、本当に嬉しかったです。
(ただし、火傷をして、足に氷を巻いているような人が、
「ゆっくり、丁寧に」お茶を入れようとする光景はシュールで、
半ば、反省をする修行僧の作務のようにも思えました。。))
そして、急須を出しっぱなしにできる空間を作ることも、大事な気がしています。
コーヒーやアルコールは、人を活性化させたり、気分を解放するので、思い出して、手に取りやすい気がしますが、
お茶はそれに比べると、見過ごされやすい、穏やかな磁場のような気がします。
だからこそ、目につくところに、
トリガーとなる道具をセッティングしておくことは大切かなぁ、と思っています。
最近見た中国ドラマのうち、「大唐女法医」第2話 の36:00あたりで一瞬映し出されるように、
中国のいわゆる良家の中庭の一角には、屋根つきの場所があって、
その下に、お茶を飲むための、小さなテーブルと座る場所があります。
登場人物で検視人の冉顔が、困難にぶつかったときに、物事を整理するために、
そこに座って、お茶を淹れながら、人と経緯を話し合ったりしていたのですが、
あれは、お茶の醍醐味でしょう…!
すごくいい習慣だと思っています。
そうした空間を、自分の近くに作れたらいいなぁと思っています。
蜂は、物事を日常に溶け込ませたり、線引きを薄くしたくて、
茶器を少なく、お茶を淹れる流れをスムーズにして、
いかに続けられるかを第一に考えるので、
自分の生活だとどうなるかなぁ、と想像を膨らませています。
(ちなみに、千玄室さんの記事とともに撮った、お茶を入れる途中の写真は、
(恥ずかしいかなと思ったけれども)写真用にアレンジすることなく、
キッチンタイマーをドーンと置き、完全に“すっぴん”の状態で撮った、日常の風景です。)
さて、すっかり長くなってしまいましたが、
偶然にも、今テレビでは、ジブリの映画「風立ちぬ」が放送されていて、
日本の戦闘機が取り上げられています。
この映画は確か、
戦争へ向かう空気と似た社会の雰囲気になった頃、宮崎駿監督が、
「この映画を作らなければならないと思った」
と聞いたような(曖昧な)記憶がありますが、
どんな戦争の教訓を胸に、どんな次の一歩へと転換したいのか、
を問われているような気もします。
一市民として、お茶を飲みながら、穏やかな日々を願い、思うことは、
弛まず怯まず、おかしいと思うことはおかしいと言う勇気を持ち、
一つのテーマに集中しなければならず、
しかもそのテーマに、二律背反(に見える)グループが接しているときには、
アクセルとブレーキが共存する、ジリジリモードを受け入れる器を育て、
ピークを超えて、心の乱れを整えることに精神的な集中が必要な段階では、
程よくゆるんで、握りしめていたものを手放し、
一瞬でも、次にすべきことが自然に見えたら、
「さて、次のことをしましょうかね」と動いていける変化を重ねていく、
そんな流れを学んでいる最中かな、と思います。
茶葉というものの一生を(見聞を含めて)観察していると、
お茶になって、パッケージの中に入り、
急須の中に入って、
中に凝縮して持っていたものをお湯に渡して、
お茶が人に触れて、
人の体の先から先まで温めて、人の気持ちを緩めている。
煎を重ねて、茶葉が持っているものを全部お湯に渡したら、
役割を終えて、コンポストに入っていく。
コンポストの中で分解されて、庭の土へ混ざり、
その土の中で生きる植物を、元気に育てていく。
こんな流れを観察していると、この流れは本当に自然に思えて、
無駄がなく、誰も傷つけず、不幸にせず、
ただただ、自分の持っている成分を渡して、命を全うしていく。
そして余分な熱量さえも必要とせずに、最小の熱量で最大の効果を生み出していく。
これこそ「平和」な流れなのではないか、と思えてきます。
今はまだメインで取り上げるには時期尚早かと思いますが、
パンデミックの後にメインテーマとしてやってくるであろうSDGsの、素晴らしい体現者なのではないか、とふと思います。
「出会った人のエネルギーにそっと触れたら、その人がなぜか元気になる、そんな流れは生み出せないだろうか」
と、ビーレエションシップが生まれる前に考えていた日を思い出し、
茶葉の一生は、ビーレエションシップの目標とするあり方でもあるのかな、と考えたりもしています。
そして、初めは反目していたとしても、厳しい環境を共にすることで、
立場を超えて、敬意が生まれたり、信頼できる関係というのが生まれていないでしょうか。
その関係こそが、これから物事を動かす原動力になるような気がしています。
最後になりましたが、
読み応えのある、千玄室さんのインタビュー記事を届けていただいて、本当にありがとうございました。
Photo by nobezi. photo AC
空に向かって、伸びる、伸びる!