公への影響力の使い方と公的責任の負い方

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最近は、社会のおかしいなと思うことに意識を向けるだけでなく、自分のするべきことや楽しみに力を注いだり、これまで見えてきた身の回りの課題や、自分にもつながっていると感じる社会の課題に対して、スズメの涙くらいの力でも、問題を転換させる方向にエネルギーを注ぎたいと思っていました。

その間に流れてくるニュースに対しても、”これまでにすでにたどって考えたことだし…”と思って、深くは見ないようにしていました。

それでも感染状況がひどくなるにつれて「医師や看護師や保健師を『確保』する」という政治家の言葉を聞いたり、
歩き始めたくらいの小さなお子さんのいるお母さんが、自営業のご主人の給料が減って言い争いが絶えなくなり、子どもと生活費のために体を傷つける結果になった経験を話した後に、「ブランド品が欲しいとか、海外旅行したいとか、そういう贅沢がしたいのではなくて、ただ普通に働いて暮らしたい」という願いを耳にしたり、
皇女制度を検討して女性皇族を国家公務員として公的な活動を続ける道を検討する案を聞くと、
公への力の使い方を間違っていないか?と心がざわざわしてきます。

最近の社会で起きているニュースを耳にするたび、憤りや嫌悪感みたいなものがレイヤーのように少しずつ重なっていて、そのざわつきを抑えるのに幾ばくかのエネルギーを使っているのですが、これはだけでしょうか?

 

一般市民に忍び寄っている現実

上に挙げた話の中で耳にして一番きつかったのは、小さな子どものいるお母さんの話でした。

ようやく歩き出したかなと思うくらいのお子さんを公園で遊ばせていた姿は、どこでも見かけるような光景でした。

しかしその方が人知れずに抱えていること、子どもや生活費のために自分の体を傷つける結果になった経験は、ここで書く気にはなれないほど重たい内容で(参照:「NHK クローズアップ現代+」)、戦後の混乱期に同じようなことが起きていたことは知っていましたが、今の日本でも起きていることを蜂はとても直視できず、テレビに背を向けながら聞いていました。

話を偶然耳にして時間が経った今でも、自分の手で目と耳にふたをして、心を閉ざして何も感じないようにしたいくらいです。

(いつも思うのですが、こうしたギリギリの状態の方のテーマを取材する方も精神的な負荷がかなりあるのではないかなと想像しています。)

 

本質にとどまるためのオープンフォーラム」では、リーマンショックに端を発した経済の悪化で派遣切りが行われ、当時は特に男性に負荷がかかったことに触れていました。

あれから4ヶ月が経ち、2020年11月10日のニュースによるとこのコロナ禍では、女性の自殺率が82.6%と大幅に増えていることが伝えられています。

正直に言うと、蜂は今回も男性に負荷がかかるような気がしていて女性の自殺率が大幅に増える可能性に気がついておらず、ニュースなどで自殺者の増加の理由は、介護、育児など家の中での負荷が女性に集中していることや、潜在的な家族の問題が顕在化していることなどがあるのではないか、と挙げられていますが、蜂はまだパチっと実感が起こるほど体感でつかめていません。

また、少し前に男性タレントがラジオ番組で「コロナが収束したら面白いことが起きる。コロナによって生活が苦しくなった女性が短時間で稼ぐためにお嬢になる」といった内容の発言をしていて、顔をしかめるくらいの嫌悪感を持ったものの、後半部分の言っていることが現実にあることにはピンときていませんでした。

しかし、先の小さなお子さんのいる女性の話を聞いていると、コロナ禍によって家計の悪化から生活費を稼がないといけなくなり、子どもが小さいために限られた時間の中で稼ごうとして、手を伸ばして届く範囲で見つけたものを実行したことで自分の体を傷つける結果になり、ふと我に返ったとき、自分のしたことに絶望して奈落の底に突き落とされたように感じ、死を選んでしまうことはありうるかもしれない、と思うようになりました。

ひとり親家庭の女性が「子どもを食べさせるために自分は一日一食食べられたらいい方」と話していたのを聞いていたことも思い出します。

今は女性の話ばかりを挙げていますが、性別やジェンダーの枠で区切る必要はなく、声を上げられない人は、自分が見えない、見ようとしないだけで、まだいるんだろうと思います。

こうして少しずつ思い出そうとすると、現在苦しんでいる人の声は自分の生活にも届いていたけれど、自分の意識の中心に持ってこようとしなかっただけなんだということに気づかされます。

きっとそれは、考えるにはあまりにも気分が重たくなるから、という理由なのだと思います。

こう思い出していった時に、自分に対して”想像することを思い出さないといけない”と思うのが、声をあげられるというのはすごく大きな一歩で、その一歩にたどり着くまでに、まだ声を上あげられない人の前には何百キロという途方もなく長い距離が横たわっていることで、数字で例えていうなら、0と1は全く性質が違う、ということです。

そして声をあげずに消えていくのが、自殺なのだろうと考えると、気分はますます重くなり、やるせなくなります。

今の自分にできることは、聞いた現状を言葉に変えて残すことなのだろうと思って、気分の重苦しさにしがみついていますが、
それまで普通に暮らしていた人が、パンデミックを機に生活費を別の形で稼がないといけなくなり、公的支援の対象にも該当しない立場にいて、八方塞がりの状況を相談できる人もいなく、自分のしようとしていることを誰も止めてくれる人がいない悪循環に入ってしまったとき、それから抜け出せるようにする公の力が機能している必要があると思っています。

そうした悪循環に陥ったときほど、助けてということすらできなくなっているので、声をかけてもらうことの方が大切なのだと思うのですが、これでも、自ら頑張って、できなければ家族を頼り、それでもダメなら国が助けますよ、自分で声をあげてくださいね、という突き放した姿勢をとり続けるのでしょうか。

いつまでこうした事態に対して静観しているのでしょうか。

「ブランド品が欲しいとか、海外旅行したいとか、そうした贅沢がしたいのではなくて、ただ普通に働いて暮らしたい」という当たり前のことが叶わないような国になるようでは、情けないです。

 

政府の本気度はどのくらいあるのか

国会では、蜂や先のお母さんと同世代の国会議員が、少子化対策や障がい者支援に手話を交えて触れていました。

ハンディキャップのある方もいわゆる健常者と区別するのではなく、全体として混ざっていく方向が大切になると思っていますし、手話で伝える術が国会で表現されたことも、手話を必要とする方々からすれば心強いものを感じるだろうと思います。

気になるのは、政府の人事や広報のやり方です。
政府に逆風のときには、世間が受け入れやすいと表面的に判断したテーマを持ち出したり、困難な状況を抱えている分野には、動かしやすそうな人を閣僚にする傾向があるように感じています。

それで、こうしたテーマや、先に挙げた小さなお子さんを連れたお母さんに代表されるようなテーマに対しては、政府はどういう対応をするのでしょうか。

小さなお子さんのいるお母さんの現状は、今の政府の支援策や追加の経済対策では、業種のフィルターで外れるし、雇用維持対策からも外れるはずです。

斜に構えた物の見方をしますが、国民の協力を得たいときに感情的な言葉を使って情に訴えているパフォーマンスでないといいなと思っています。

 

政治哲学はどこへ行った

上げて下げるような流れで申し訳ないのですが、正直に言うと、今の政府の考え方を見ていると、対策にはあまり期待はしていません。

感染症対策など公共福祉の分野では、政府は問題が起きて初めて処方箋のように対策を打ち出すばかりで、先を見越しての対策や、全体の底を流れる本質に食い込むような政策や改善は少なく、打ち出される支援の対象は資本主義、新自由主義圏内のものばかりです。

現在ほど政治に哲学が要求されている時代はないと思うのに、与党から出される案も過去のやり残しや現状の延長の政策が多く、もっと広角に、そしてミクロに物事を見てほしいと思います。

また現在の内閣の政策ブレーンと呼ばれる方の中には、「ショックドクトリン的に物事を進めていけば(いい)」といったことをテレビで平気で言った方もいるようです。

今年の10月だったかと思いますが、そのことを蜂が偶然聞いたとき、びっくりして思わず作業の手を止めて顔を上げました。

ショックドクトリンというのは、今のような非常事態で人々が混乱している間に、権力側が早々にシステムや政策を作り上げ、人々が我を取り戻した時には不可逆的になっている状況を作り出すことをいうはずで、そうした現象に警鐘をならす目的でそのテーマの本が出版されたはずですが、著者が伝えようとしていることを汲み取るどころか、相手が本来伝えたいことを自分に都合よくひねって解釈し、利用できる人が政府の政策ブレーンの中にいることが信じられませんでした。

こうした傾向を持つグループが今の日本の政策を作っていて、彼らの目には公の力を必要とする対象や領域が見えていないと感じています。

 

政治への考え方には傾向があり、交わらない部分もあるでしょう。

それでも学校の教科書で習った道徳のように、大体多くの人が「人としてこれは大事だよね」と合意できるところがあるはずで、現在の政策を作る中心ではそうした倫理観や道徳さえも侵食されているような気がしてガックリします。

ごく主観的な思いではありますが、「ならぬものはならぬ」と言ってくれる声が聞きたくなってしまいます。

 

環境や生まれの不条理

「贅沢がしたいのではなくて、(体を傷つけたりせずに)ただ普通に働いて暮らしたい」という切実な話を聞いたのと同じ時期に、皇女制度検討の話を聞きました。

ため息が出ます。

時期的にも皇嗣家の内親王のご縁談と関連しているのでしょうが、国家公務員という立場を作り、安定した収入を得る道を周囲が作り出す案に見えます。

個人的には皇嗣家の内親王のご縁談には違和感がありますが、状況は国民感情の一つとしてそうしたことを云々言う段階ではないようですし、失礼に当たるとは思いますし、一般国民と皇族は憲法が適用されるかされないかで違いがあることも承知していますが、人は生まれる環境を選べず、人間として生まれてきた以上、成功したとしても失敗したとしても自分の思う道を試して進む権利もあるようにも思います。

一方で、皇室という公の力を使って、意に沿う状況がないのなら作り出せばいいという状況があるのなら、それは公に対する力の使い方が違うように感じています。

 

同じ時期に聞いた状況で、片や体を傷つけるところまで追い詰められていて、片や何もしなくても周りが道を敷いてくれるというこの違いは、一体何なのでしょうか。

環境や生まれの違いでしょうか。

もし自由に自分の生き方を試せないなら、自分で道を切り開く自由と責任と覚悟が必要で、
身動きできないほど経済的に困っているなら、ひとまず身を守るための支援が差し出されること必要で、
失礼でおこがましい言い方ですが、手にすべきものが逆なのではないか、と思ってしまいます。

 

国は変わりますが、アフリカ系アメリカ人は警察に遭遇したら、抵抗しない意思を示す方法を家庭内で教えるのだと聞きました。

ここまで如実に生まれが関係してくるのを知ると、やりきれない想いになります。

それでも長い人類の歴史を見れば、人間性というものは確かに社会に浸透し、制度に反映されています。

どうか時代が戻らないことを願うばかりです。

 

 

新しい時代の経済システムとデジタル技術の使い方

そうは言っても、不満を言ったり、課題をあぶり出すだけで終わりたくはありません。

経済システムの変化はすでに話し合われ始めていますよね。

COVID-19が再び感染拡大してきた中で、健康と経済のあり方について議論がなされたNHK World JapanのGLOBAL AGENDAの動画の40分15秒当たりから、日本の経済学者とドイツの政治学者との間でこれからの経済システムへの言及があります。

 

NHK World Japan
GLOBAL AGENDA COVID-19: Battling the Resurgenceよりスクリーンショット
2021.9.26.まで有効
 

 

蜂の読み方が間違っていなければ、こういうことが話されていると思います。

 

「観光業やホテル産業、飲食業、その他の産業の規模が縮小する中、経済の抜本的な改革が必要で、COVID-19が終わった頃にはこれまで通りにビジネスは戻ると予測しつつ、会社の流動性を政府は支援しています。

ビジネスの根本的な変化を前提に、会社の支払い能力を元の状態に戻すための政策の変更が必要となっています。

そして個人を支援する政策の改善も必要です。

現金による迅速なメリットが最も大切で、個人に対する所得に応じたローンの貸付を4月に提言しました。

この計画では、政府は必要としている個人に対して事前審査なしでローンを提供することになり、国税庁は合計所得を監査し、合計所得が多ければ税を多く課し、基準より少なければ税を取らないことになります。

こうすれば事前審査をしたり、今持っているものを公開したり、システムの公平性を修正しなくてよくなります。

私の考えでは、次世代にはベーシックインカムシステムが一つのオプションだと思っています。」

「ドイツでも最低所得の課題は実験されていて、COVID-19によって押し進められています。

実際に今とても有意義な議論が行われていて、忘れてならないのは、来年にドイツでは選挙があることです。

私たちはもう一度どんな経済モデルが社会に根付くべきかを考え直す必要があります。

社会福祉国家、社会市場経済は今、そして21世紀には、何を意味するのでしょうか?

もしうまくいけば、現在の経済モデルが準拠している大量消費主義モデルには批判的で、同じ基盤には乗らない新しい経済モデルを実際に加速させることになるでしょう。」

 

 

”We’ll be facing the COVID-19 for years, maybe. We need a drastic structure change in the economy, shrinking the size of the many industries like tourism, hotels and food services and other service industries. The government is now supporting the liquidity of the firms on the assumption that the businesses can eventually continue as it is, if COVID-19 is gone. But it should change the policy to restore the solvency of the firms on the premise that they should change their business model fundamentally. And the policies to support individuals also need improvement. Prompt cash benefits are the most important. I advocated in April to introduce income contingent loans to individuals. In this scheme, the government should provide loans to individuals in need without any pre-screening ex ante. The tax authorities should check the total income exposed, and impose a higher tax rate if the total income is too big and zero tax if the total income is less than some thresholds. So, by this way, we don’t need ex ante screening and expose that we have, or restore the fairness of the system. I think a basic income system is one of the options for the next generation, I think.”

Professor Keiichiro Kobayashi

”Also in Germany, the whole issue of the basic minimum income, where a number of tests are now starting, by the way, is being pushed forward through COVID-19. So, actually, there is a very productive discussion right now and don’t forget, next year, Germany is going to have elections. We also need to rethink the economic model on which our society is based. What does the social welfare state, the social market economy, actually mean now, in the 21st century? And if well done, I think that can really boost new economic models that are absolutely critical and are not based on the kind of consumerism on which the present economic model is based.”

Professor Ilona Kickbusch

 

 

蜂には聞いていてほっとする意見で、現在の状況の本質まで食い込んでいる意見だと思っています。

一つの議論の場であったとしても、国をまたいでなんとなく合意できるような経済対策についてのアイディアは出ているんですよね。

今の日本はどの段階にいるのでしょうか。あるいはこうした考えは阻まれているのでしょうか。

財務大臣が「外国で提案された制度を日本で実験するのはいかがなものか」と懐疑的に言っていたのをチラッと聞いたような気がしますし、一方で社会保障の見直しやマイナンバーカードの推進はどの路線に沿って行われているのだろうかとも考えます。

 

また現在はデジタルトランスフォーメーションが盛んに叫ばれ、強力に推し進められようとしているのも感じています。

個人的にデジタル技術は好きです。

物事を整理をするにしても、想像の世界を共有するにしても、流れをよくするにしても、試してみたいことはたくさんあります。

だけど、例えば人の困窮度や所有物を数値化して、ピンポイントで支援を行っていくためにデジタル技術を使うことには賛成できません。

なぜなら、人を要素に切り分けていくということは全体を見る目を完全に失い、その思考パターンから抜け出すには全く違う切り口がいずれ必要になり、根底から作り替えるための莫大なエネルギーが必要になることを経験的に感じているし、デジタル技術によって抽出された個人データを特定の傾向の考え方の元で利用することにつながる可能性があると思うからです。

そうではなくて、デジタル技術の得意なところは、大量のデータを素早く処理できることだと思います。

今までデータの処理が大変でできなかったことは何でしょうか。

蜂がこんな未来になったらいいなと思っているのは、「ミツバチの合意形成」で少し触れたように、投票を手軽にできるようにすることです。

「ミツバチの合意形成」を書いたのちにオードリー・タンさんの考え方と実際に作ったデジタル投票の仕組みを知り、オンラインで投票をすることはすでに可能なんだと驚いたのですが、抱える問題の複雑さや時代の変化のスピードを考えると、誰か一人の政治家やひとつの政党に自分の一票を何年も預けるのはリスクの方が高いのが現状だと思っていて、複数の候補者や政党に比重をかけて投票できたり、頻繁に投票が可能になって平等に意思を表明でき、投票することは楽しいことと言える未来が来ることが待ち遠しいです。
(東京都の感染状況を示すウェブサイトの構築がオープンソースだったために、オードリー・タンさんも参加されたそうですね。
そうした関わり方は、これからの主流になっていくような気がしますし、先に挙げた経済システムへの議論はそうした可能性を解き放つ方法としてつながっていく気がしています。)

そうして社会に関わっている実感を持つことは、納税することが誇らしいという気持ちへとつながるのではないかと想像しています。

 

また上記の経済システムに関する議論に関連して、役所で書類を確認しなければできなかったキャッシュの流れの確認が大量にできることにも、多くのデータを素早く処理できるデジタル技術は活かされるのではないかなと思います。

 

いずれにせよ、デジタル技術と透明性は常にセットだと思っていて、例えば以前のマイナンバーカードの制度のように、政府による国民の管理の思惑が見え隠れするような状態や、個人を細分化して数値化し、その数字で誰かに判断されるような状態では、自然と人は離れていき、うまくいかなくなると思います。

新しいものを手にしたときにその技術に一時的に魅了されてしまうこともあるのですが、デジタル技術は道具であって、目的ではないと思っています。

そしてここにも倫理や道徳、哲学といったものが必要になってくると思います。

 

AIは人間の能力を飲み込むのではないかと恐れられた時期もあったかと思いますが、例えばディープラーニングによって購買履歴などを学習し、お勧めを表示する機能など、生活を下支えする(時に疑問に思うこともありますが)技術に落ち着き始めているのではないかなと感じています。

同様に、今のデジタルトランスフォーメーションの機運が、個人の生活と公共の利益を下支えする技術に落ち着くといいなと願っています。

現在はデジタルトランスフォーメーションに向けて走り始めたばかりだと思いますが、考え方の角度のわずかなズレも、長く伸びていけば行き着く先は全く違うところになると思っています。

 

 

再びリーダーシップの問題に

政府内でどこまでの議論がなされているのかはわかりませんが、こうした議論の動きがあることや、今どの方向に向かっているのかを困っている個人が知れば、少なくとも自分は忘れられていないと思って生きていく希望になるかもしれないのに、どうして語りかけないのでしょう。

一番酷なのは、何かを知っていたりわかっていたりしても、何も言わないことかもしれません。

無関心、傍観者の暴力というものもあります。

 

いよいよ感染拡大が危ない状況になってようやく、総理が自ら感染予防策を呼びかけられるようになったときの総理の表情はどこか晴々としているように感じられ、すべきと思っていたことと言うことが一致した解放感ではないかなと勝手に感じていました。

これ以上の思うことはグッと飲み込みますが(もう散々言った気もしますが…)、一つだけ思うのは、ここまでの状況になって医師や看護師や保健師を「確保する」と言っても、自分が確保される立場だったら「冗談じゃない」と思うだろうし、感染症の専門家がインタビューを受けていてため息が出る気持ちもすごくよくわかる気がします。
「何度同じことを言わせたら気が済むんだ」と蜂だったら言いたくなると思います。

 

リーダーシップと権威ある立場はイコールではないと重ね重ね思いますし、全ての問題を解決するアイディアを一人が持ちあわせることを求めるのも無理だとも思うのですが、それでも一般的にリーダーシップの役割を重ねて見られる立場の人ができることは、どの方向に向かおうとしているかを周りに伝えることではないでしょうか。

決定事項だけを表明するというのは、とても男性らしい思考だと思います。

でも今求められているのは、何を考えているのかという途中経過や、どこに向かおうとしているかを共有してほしいということではないかと思います。

その方向にはできる限りの意見が集約されて練り込まれていることが望ましく、これからも試行錯誤もあるかもしれないが、いい知恵があったり力を持っているなら貸してほしい、そして安心してほしいと伝えることではないかと思います。

 

今、公共の基盤がとてももろくなっていて、だからこそ試されているのは、公共の利益や社会福祉とは何か、そしてどんな経済システムが根づくのかという問いに対して本質まで食い込んで考えるのを助ける倫理や道徳や哲学であり、公の力なのかも知れない、と思っています。

憤りを覚えたりする現実もありますが、それでも蜂の目から見たもっともな意見やアイディアや技術を持っている方々がいることをこのパンデミックの中で知ることができ、希望は消えていません。

政府に公の力を必要としているところが見えないのならそれを待っていることはせず、自分たちで何が公の力なのかを考え、実践していくことも必要なフェーズに入っていくのかなと感じています。
もうすでに実践されている方々もいますしね。

 

「責任」と日本語で書くと肩にずっしりと重くのしかかる感じがありますが、英語で書くと「投げかけられたものに対して応答する能力」ということになると思います。

すなわち責任を負うということは応えることであり、問われていることに答えずに、勝手気ままに独りよがりの行動をすることは、責任を放棄していることになると思います。

もちろん全てに応える必要がない場合もありますし、応答する関係が終われば、その信頼関係は終わるということになるのでしょう。

そして途中で間違うことだって誰にでもあると思います。

現在の様々な状況に共通しているのは、自分が納得できる話以外は耳を閉ざし、我を押し通すことのように見えていて、こんなことがこれからも続いたり当たり前になれば、これから日本はどうなっていくんだろうなと、普通に生活していて思うところまで来ている気がします。

おそらく後から振り返れば、あのときは異常なときだったといえるのが今なのではないかと想像したりもします。

浮かび上がった課題と、重たい気持ちと、芽を出しつつある可能性を抱えて、これからの公共の利益や社会福祉とは何か、そしてどんな経済システムが根づくのか、目先の利益だけに囚われず、でも実利的な視点も忘れずに、身の回りのできるところから転換していきたいと思っています。

 

 

 

ビーレエションシップを探検!