法律改正への動き
特別措置法改正や感染症法改正、蔓延防止等重点措置によって、時短営業要請に従わない飲食店や、入院に応じない感染者、疫学調査への拒否行動に対して、懲役刑や罰金を科すことを政府が検討し、与野党協議に入っているニュースをずっと聞いています。
言わんとすることはわかるような、だけど目先のことだけしか今は見えていないのではないかという、どこか腑に落ちない感じや、何かしっくりこない感覚があり、結局自分はどう考えるのだろうかとずっと思っていました。
感染者の行動履歴から、飲食の機会が感染を広げる共通項のようだと見えてきていることは、現場に根ざした事実として大事であると同時に、それならば飲食店をターゲットに罰則を作れば、この感染は落ち着くということになるのだろうか、
秘密裏にホームパーティーなどに流れたりして、いたちごっこにはならないのだろうか、と考えたり、
数ヶ月前まではGoToイートとキャンペーンを打って、外食が持ち上げられていたのが、一転して、罰則の対象になるこの落差は、社会科学の視点から見れば、根がはっていない、浮き足立っている政策なのではないか、
そもそも無症状の感染者が出歩き、接触を繰り返すことで、経路が追えない市中感染が広がっている状況なのに、そこの対策が追いつかず、濃厚接触者の追跡さえもできなくなっていることは、どうするのだろうか、と考えたりしています。
一方で、社会科学の一部をなす地方自治体の首長の要望に沿って、政府が動こうとするのはいいことだと思うけれど、政府として具体的なケースをある程度把握して、イメージがつかめる状態までもっていっていない状況で、入院に応じない感染者に罰則を科せば、それで事態は収まるのだろうか、と考えがいきます。
確かに今一番大変な場所の一つは保健所で、罰則による抑止効果によって、初めは、保健所の入院調整の負担が、ある程度減ることを期待できるかもしれません(罰則手続きを進める部署が必要になりますが)。
しかしやがて、入院が必要とわかる段階に行く前の、検査を受けること自体を避けようとする動きを生むことになるのではないだろうか。
そもそも、感染状況がある程度収まっていた夏から秋にかけて、入院や検査に応じない人への罰則規定について議論しなかった理由に、ハンセン病患者への長年の隔離政策と偏見の問題が挙げられていましたが(それは大事な視点だと思っていて、夏秋に検討されているのかと思っていました)、それとはどう地続きになっているのだろうか。
また、入院に応じないことが罰則の対象という図式を作った場合、その非言語メッセージの最も単純な形は、「感染=隔離」ということになり、医学的にはそれは妥当だとしても、社会的にそれが風のように拡大されて一人歩きしたとき、今でも影で存在し続けている看護師への偏見を、公言してもかまわないとする風潮に風穴をあけることにつながるのではないか。
今はそんなことが起こる可能性は低いと思っていても、「ちがうもの=隔離していい」という風潮に変異し、長い時間をかけて学校や社会に一般化されることは、別の事例を見ていても十分に起こりうると思うので、その懸念を持っていても持ちすぎることはないと思っています。
それを胸に抱え続けることが、国全体を底上げしてまとめる危機管理であると思っていますが、そんなことをし続けられる為政者がいるのかと考えれば、それはどうだろうか、という疑問符が浮かびます。
個人的には、一時期、入院に応じない感染者への罰則の案には賛成に傾いていたけれど、上記のことを考えたとき、ハンセン病患者への長年の隔離政策と偏見の問題から、何を学び、何がキーポイントになり、何を繰り返さない、ということが明確にならない限り、「適宜呼びかけて偏見が生まれないよう対処する」という言葉だけでは、未然に防げないと思うようになり、慎重な姿勢に変化しています。
ただでさえ、「ワクチンを確保してオリンピック開催」が、「ワクチンなしでもオリンピック開催」になり、「感染状況が収束したら、GoToトラベルキャンペーン」のはずが、「第1波が下降傾向になったら、GoToトラベルキャンペーン」と、ずるずると変えていく日本政府です。
自然科学と社会科学をまとめる場としてあるはずの政府ですが、ワクチンの確保には積極的に動いていたと思います。
その一番の動機はなんだったかと考えると、純粋に国民を守るという気持ちと、オリンピック開催と、その後の選挙への流れを作りたいことではないか、と感じています。
夏から秋にかけて、感染状況が一時期落ち着いているかに見えたとき、多くの不足や無秩序、乱雑さ、接続の悪さがたくさん見つかっていましたが、あれから今までに、ワクチン確保以外の何を、感染対策として進められたでしょうか。
今検討されている案は、国会の承認を通さずに運用できるとのことですが、今の政府の考え方で、私権の制限をかけ、罰則による行動変容をもたらそうとすることは安全なのだろうか、
そもそも、今の政府に、それらの罰則を考える資格はあるのだろうか、
それができる資格があると胸を張れるほど、細やかな対策を、感染状況が比較的落ち着いていた時期、つまり、自らが優位な立場にあったときに行ってきたのか、という疑問がわいてきます。
特別措置法改正、感染者法改正、蔓延防止等重点措置による罰則規定と補償の明記が、仮にあれば、要望している知事への顔も立つし、今後、同じような状況が起きたとき、今回のように政府の意思がすみずみまで届かなかったことへの焦りや罪悪感も回避されるでしょうし、政府の号令によるスムーズな統制の取れやすさはひとまず確保できるようになるでしょう。
そう考えると、この動きはどうなんだろう、その前にすべき何かがあるのではないか、と思えてきます。
重みを持って感じられたメッセージ
今は、これから感染者数が減少傾向に転じるかな、どうだろうか、というところにいると思いますが、もし仮にこれから本当に減少傾向へ転じた場合、人々の動きを抑え、緩やかにでもそうなった要因は何かと考えてみると、情報の受け手や生活者として、下記のような事実を聞いていることが、最も重みを持って届いています。
それは、保健所の方が、入院先を探すために何件も病院をあたるけれど、受け入れ先がみつからないこと。
救急搬送先の病院が決まらずに、何件もあたっていること。
そして、自宅で療養し、入院を待っていた人が、全国的に何人も亡くなっていること。
(地域ニュースで聞きましたが、ホテル療養では、患者が一人が退出するごとに部屋の掃除ができるわけではなく、ワンフロアが空いてから、ようやく掃除ができる状況があったそうです。(今はまた変わっているそうですが)
医療従事者が防護服の着脱に時間がかかるように、感染症対策には、通常の動きの数倍の時間をあらかじめ見込んでおかなければならず、例えば清掃業務を担当する人を派遣するだけでは問題が解決しないということが、あちこちで起きているということだと思います。)
そうした異常な事態が全国的に頻繁に起こっているという事実が、何よりも一番の重みを持っています。
しかしこうした事態は、本来は起こってはならない、起こしてはならない事態です。
こうした事実に、次も、人々の動きを抑える役目を期待することはできません。
そして次に、まずいことが起きている、と重みを持って感じられるのは、第一波のときと同じように、医療界の方が、眉間にしわを寄せて、淡々と、事実とこれから予測されること、どういうことが必要かを訴えておられる姿です。
直接会ったことがなくても、人間ですから、なんとなくこの方は、怒りを圧し殺して、冷静に事実を伝えようと努め、平時以上の力を出して訴えておられるのではないか、と感じる力はこちらにもあると思います。
そして最後に耳に届くのが、政府の呼びかけです。
批判する意図ではなく、ただ単に感じることとして記録すれば、自らも疑問に思っておられる通り、政府の発するメッセージが重みを持って感じられることはありませんでした。
緊急事態宣言の重みは以前に比べてなく、政府の声が国民に届かなかったのは、政府の非言語メッセージによるものではないか、と思っています。
前回の緊急事態宣言解除後すぐに、「パンデミックが終息してから」という条件をすっ飛ばして、周囲の意見を聞かずにGo Toトラベルキャンペーンの実施に突っ走りました。
(長年自民党を支持してきた人が、さすがにこれは愚策、とこぼしていたのが印象に残っています。)
この行動の非言語メッセージは、「目の前に見える感染者の数字が少なくなれば、その前に起こっていたことを忘れてよく、窮地に陥っている観光業や飲食業を助けるという名の下、好きに動いていい。それを国としてよしとする。」というもので、それが日本じゅうに散らばり、数ヶ月という時間をかけて浸透していった結果、いよいよ危ないという事態に陥っても、政府の呼びかけは国民に届かない結果を生んだように思います。
(この政策を真似した韓国は、感染者が増えたときにはすっぱりと中止しています。)
そのうち、国民に会食をするなと言っていた立場の人々が、政治資金を集めるパーティーの開催であったり、会食を呼びかけたり、参加していたことが続き、政治家は本音で語るために会食をするのが必要で、それが仕事という、仰天の価値観が飛び出してきました。
(食事をしながらでないと本音で話せないということと、自分たち政治家は感染状況とはかけ離れた特別な世界にでもいるかのような感覚の露呈の、二重の意味で驚かされました。
話に個室は必要でしょうが、この時勢に数万円の会食が日々行われていたということ、個別に縁のある人の陳情や要望を聞いている行動を知ると、こんな動きでは経済界や政治家に縁のある人の要望は組み上げられても、生活者の感覚は周縁化されるよな、と思い、何のための、誰のための政治で、誰が社会全体を見渡した政治をしてくれるのかな、動き回るばかりで熟考する時間はいつあるのかな、と思っていました。)
こうした度重なる言動の不一致によって、国民と政府の信頼が切れた凧の糸のようになった結果、政府の呼びかけに国民が反応しないのではないか、と思っています。
それこそ受け手も人間ですから、数日前までまったく違うことを言っていた人が、翌日に180度変わったことを言っていても、世論の低下や感染状況の悲惨さなど、自らの動機の変化が理由で、そう言わざるを得なくなっているんだろうな、と感じるだけです。
ましてや、「一生懸命やっているから、いちいちケチをつけるんじゃない」という発言が政策を実施した側からあったようですが、これは、検証さえもケチと呼ぶということでしょうか。
一生懸命やったという感情は、引き起こされた事象の免罪符で、それですべてがおさまるべきと考えているということでしょうか。
利害関係のある人には、睨んだり、上から押さえつけるように物を言えば、効くかもしれませんが、国民と政府の信頼は、切れた凧の糸だと感じていて、それが通じるようには思えません。
今の結果は、これまでの行動からくるものです。
こうしたときに、この文脈で、すごんで見せることを言ってもおかしくないと思っているならば、この為政者の体質が、わずかなりとも(あるいは、そうしたやり方がグループのトップから発せられていることを考えると、かなり根深く浸透していることも想像できます)、罰則検討に反映されているのではないかと思えてきます。
これで国民は本当についていくのでしょうか。
そうは言っても、国の代表である政治家のメッセージや言動は、影響力があります。
簡単ではないことはわかりますが、まずできることは、自らのグループ内の、睨んだり、上から押さえつけるように物を言うことによって、人を動かそうとするやり方からの脱却ではないでしょうか。
それは一見、感染症対策には関係ないように見えると思いますが、これ以上の乱雑さを広げないという意味で、案外大きな効果をもたらすのでは、と想像します。
社会的イベントと感染対策とのつながり
メッセージが人に届いたかどうかという理由ではないところで気になるのが、感染が拡大しすぎて保健所が濃厚接触者を追えなくなり、PCR検査の総数が減っていることと、感染者数の減少傾向との関連の可能性です。
またふと思い出すのが、オリンピックの延期が決まったと同時に東京都の感染者が増えたり、IOCの会長の来日に合わせて、感染対策への呼びかけが手薄になり、ウイルスと共存するというメッセージが出てきたりしたことです。
公の立場では、国際的な契約の影響を受けて、その発言の内容が決まることはあるかもしれないと思いますが、オリンピック開催への動きを受けて感染症対策の内容が決まるようでは、それは順番が逆で、公共の福祉に反するように思います。
IOCからスポーツ選手へのワクチンの優先接種の希望に対して、WHOが「現時点で医療従事者や高齢者などへの必要な量が確保できていないのに、そうした考えは現実的ではない」とピシャリと返したことを聞いて、安堵の思いがしました。
人生はハレばかりでできていない
2020年12月29日に、オリンピックに派遣する医療従事者に、無償で協力を要請する予定だったところを、感染拡大を受けて、派遣元である医療機関への協力金を支給する方針とし、国民の理解を得ようとしているというニュースを読みました。
これを読んでびっくりしたのですが、どうしてそもそも、医療従事者への協力要請が無償などという考えが出てきたのでしょうか。
その考え方の根底には何があるのか、
オリンピックの存在は、医療従事者よりも立場が上だと捉えているのだろうか、
だとしたら、それは大きな問題で、いろんな疑問がふき出すニュースでした。
このニュースを読んだとき、以前に「IR計画でギャンブル依存者が増加したらどうするのか」という質問に対して、「治療者を増やして対応する」という回答があったことを思い出すのですが、どうしてそもそも、無秩序や混乱を引き起こすことがあらかじめ想像できることを推進し続けるのでしょうか。
そもそも、そういう考え方がおかしいと考えたことはないのでしょうか。
それとも、混沌を引き起こしているとは認識しなかったり、大した問題ではないととらえているのでしょうか。
だとしたら、「何」よりも対した問題ではないと考えているのでしょうか。
根底で起こる問題を考えずに、自らになじまない周りの意見も聞かず、やりたいことをやりたいようにやる。
物事が散らかる可能性を指摘されても、無視して推し進め、物事が散らかったら、片付ける人を増やせばいい。
こうした考えは、この1ヶ月より少し前には、総理大臣が誰であろうと、政府に顕著に見られた考え方であり、やり方です。
そして感染症対策にも、GoToトラベルキャンペーンにも、IR事業にも、そして罰則検討にも、共通して、根底に流れているように思います。
Go Toトラベルキャンペーンによって、一時的に救われた方々がいることや、それぞれの業種が、どういう思いやどういう流れで動いているか、飲食店や観光業の方々が、自分たちの仕事の意味に揺れ、取引業者や従業員をいかに必死で守りたい思いでいるかをずっと聞いていました。
そして、この施策は持続可能なものでしょうか。
公平性が担保されたものだったでしょうか。
パンデミックによって、世界中が否応なく目を向けさせられ、ひっくり返された、人間の生活の土台部分、個人の健康と公共の福祉を、どんな波風が来てもしなやかに乗り越えるためのテコ入れに寄与したでしょうか。
Go Toトラベルキャンペーンに反対していた立場からすれば、科学的にだけでなく、生活者の視点からだけでも、道筋をたどって考えれば、この結論は予想できるとは思ってはいたものの、今の結果は想像以上です。
しかし、結果が実際に現実で起きていなかったことや、それで助かる人もいるならと、一度自分の意見を言えば、あとは現象を見ようという思いもありました。
ですから個人的には、今のこの大変なときに、終わったことを責める気持ちはありません。
それでも起きたことの検証は必要と思っています。
Go Toトラベルキャンペーンは見切り発車したから、再三の修正が必要になり、振り回される事業者も多くなり、感染を全国に広げたという論文も出されています。
昨日の予算案には、しっかりGo Toトラベルキャンペーンが幅を利かせて盛り込まれていましたが、これから再び同じことを繰り返せば、(奥で政府を動かしている存在はもう見えてきていて、)現在の政府の低姿勢は今だけのものということになり、過去の経験から何も学んでいなくて、考える力のない国、ということになると思います。
(自分を省みると、外を動き回ることはないものの、室内で昼食をとるタイミングがわからないほど動き回った結果、年末に風邪を引きそうになり、“自分の行動からわかるのは、動き回ることでしか、生活の(経済の)流れを支えられないと思っている考え方が、結局自分の中にも宿ってることだな”と思ったこともありました。)
もっと踏み込んで言えば、パンデミックがきっかけとなり、観光立国という考え方なり戦略に、疑問符がついているのが、今なのではないでしょうか。
何を今更当たり前なことを、と思われる方も、違うと思われる方もいるかもしれませんが、観光や外食は生活を豊かにしてくれたり、記念日を彩ってくれたり、海外との交流が生まれるよい機会になると思いますし、仕事や性格によっては、飛び回ることが日常だという方々もいると思います。
しかし、平均的な普通の生活者であると思っている個人としては、そうした部分は「ハレ」の部分であり、「ケ」の部分に当たると思う、医療、教育、福祉、流通などの基盤となる分野には、合理化の波ばかりが押し寄せていたように思います。
特にパンデミックが起こる直前には、地域医療の再編が中央で声高に言われていて、どうなるんだろうと心配していました。
基盤がもろくなったり、今のように地底から何かが突きあげて基盤がひっくり返されれば、その上にいくら立派な経済対策や戦略や城を建てても、もろともに崩れ去ります。
それをどんな立場の人にも実感をもってわかるようになったのが、今で、感染が広がればどんなキャンペーンも止まる、ということではないでしょうか。
うまくいっていないことを丁寧に意識化して、組み直そうとしたり、これ以上乱雑に散らかさないように、丁寧に作り上げるという発想に切り替えられないのでしょうか。
そのための第一歩に、緊急事態だからこそ、自らの非言語メッセージからどんなメッセージが出ているかに、細心の注意を払う、それをグループ内部から始めることは有効なのではないか、と感じています。
ガンになったとき、まずは診療を受けて、外科手術や投薬を行いますが、それに加えて、生活を見直すことをします。
体力が落ちていたり、病気になったということで精神的にも落ち込んでいる中、食生活や生活のパターン、こびりついた考え方など、どこかに何か、病気を引き起こした原因があるかもしれないと仮定して、再発を防ぐために、自らに、疑問を含んだ俯瞰的な目を向けることは、本当にきついことです。
COVID-19によって、世界は同時に未知の病にかかり、ようやく有効に思える薬が出てきたところだと思います。
それでもワクチンはまだ世界中に行き渡っていない状態で、有効性の検証もまだ確定していません。
日本でも世界のあちこちでも、これまでの考え方や生活を変えようという機運が生まれていますが、それはあながちパンデミックをきっかけに便乗したことではなく、本質に入っていて、社会的な治療のように感じています。
そこには、「成長」という姿よりも、「成熟」というあり方のほうが、しっくりくるような気がしています。