今、関西圏でイギリス型変異株による感染が急拡大し、
2021年4月25日から5月11日まで、大阪、京都、兵庫、東京に緊急事態宣言が出されている状態です。
昨年の同じ時期の緊急事態宣言の時の緊張感とは違って、
オリンピック・パラリンピック組織委員会の行なっていることや、
オリンピック開催への動きに関して、都知事や総理大臣が言っていることを見ていると、
“(アンケート結果を通して、国民が)何を言っても、無駄だ”、という徒労感の方が、蜂の心を覆っているのですが、みなさんはいかがでしょうか。
現在のちぐはぐな社会の状況に、異常な感じとか、無気力感とか、
この国は何をしようとしているのだろうか、という希望の見えなさのようなものを感じたりしています。
もしかすると、選手の情熱や活躍の場を思い、
オリンピックを開催した方がいい、今のやり方でいい、という肯定派の方もいらっしゃるでしょうか。
オリンピックへの医療従事者の派遣
オリンピックを開催しようとして、元アスリートで、現在のオリンピック組織委員会の方が、
眉間にシワを寄せて、苦悶の表情をにじませながら、オリンピック開催の意義を懸命に話そうとしていたり、
オリンピック・パラリンピック組織委員会が、
「医療が逼迫していることを承知の上で、オリンピックに医療従事者500人の派遣を相談した」という話が印象に残っています。
(以前は、無償で医療従事者を確保するとなっていたところが、2020年12月の段階で有償となり、
2021年1月の時点では「医療従事者一万人を確保する」となっていたところが、現在は500人に大幅に減少しています。
海外からの観客を受け入れないことや、医療が逼迫していることへの多少の配慮などから、
桁違いの数まで減らしたのだろうかと思いますが、同じ事象を見ても、違う見方もあると思います。)
現在の緊急事態宣言の終了期間である、5月11日という日付についても、
感染症の専門家からは、
「この期間で(終わること)は難しいと思う。日にちで決めるのはなく、どの水準になったら、という方が望ましい。延長もありうると思う」という意見が出ていたり、
一市民から見ても、
“感染拡大している地域では、災害級の医療逼迫と言われているのに、なぜ今回はこんなに短いのだろう”という疑問がすぐに出てきます。
ちょっと調べてみると、2021年5月17日にIOCの会長が来日予定なのだそうですね。
そして都知事は、
「東京に来ないで。エッセンシャルワーカー以外の方の移動を控えてほしい」と呼びかける有り様です。
感染症対策については前向きで、東京の近くには住んでいない者からしても、
都知事のこの発言と、緊急事態宣言解除後にしようとしていることの矛盾は、すごく気になるものでした。
確かに今、東京に遊びに行くのはどうかとは思いますし、
都知事として一年以上コロナ対策にかかりっきりになっていて、大変だとは思いますし、
オリンピック開催国の当事者として、抱えている事情はあるだろうと想像しながらも、
一般国民には「東京に来ないで」と釘を刺し、
IOCの会長には、東京へ来る道を開ける姿勢は、異常に見えます。
(思い出せば、昨年の3月のパンデミックの懸念が出てきた頃、
中国の国家主席を国賓として迎える道を確保したいがために、国境封鎖が遅れたということもありました。)
パンデミック初期の頃、IOCの視察団が帰国したのちに、東京の感染者が増えたのは、
視察中はPCRの検査数を減らし、帰国後に増やしたという懸念が出ていましたが、
あながちそれも懸念ではなく、本当のことだったのではないか、と勘ぐってしまいます。
総理大臣は、いい意味での変化の度合いは、これまでの政権より大きいと感じる気持ちがなくもないですが、
自国民がこれだけ困っている中で、「オリンピック開催決定権はIOCにある」と言えるのは、
確かに事実としてはそうだとしても、
家庭の中で困った状況が起こっても、自ら考えず、
「柳に風」で「ことなかれ主義」の、悪い意味での“日本のお父さん”みたいで、
“何を言ってもダメだ、こりゃ”と気が萎えます。
統計的に物事を見る傾向があるように見受けられる方々からは、
「病床をなぜ増やさないのか」といった意見が、今も出ていて、
それに対して医療関係者の方々からは、
「それは緊急の対策であって、感染症対策の本質ではない。
感染者の拡大が蛇口だとするなら、受け手を増やすのではなく、蛇口を閉めるのが対策の基本中の基本で、病床の数は無限ではありません。有限です。」というやりとりも出ています。
エントロピーが大きすぎるように思えて、あまり振り返りたくありませんが、
GoToトラベルキャンペーンでは、心理的にも潜在的にも感染拡大の種が全国に広がり、
年末に一気に感染拡大が現実に現れ、全てのキャンペーンが止まったという経験を日本全体がしたと思っています。
その経験の後も、「病床を増やせないのは何故か」という意見が、
経済分野の分科会のメンバーの方から出ていることを思うと(医療関係者が余力のある時に、自らに向けた疑問として出るのではなく)、
各領域のつながりに対しての理解が腹に落ちている状態とは言えない中で、政策が進んでいるんだろうなぁ、
そして、まだ、量的なものの見方が強いんだろうなぁ、と感じずにはいられません。
おまけに昨日、クリップしていたウェブニュースを夜に開いたら、
クリップした時には見られなかった、「オリンピック、パラリンピックガイド」という華々しいヘッダーが追加されているのに気づきました。
ヘッダーの、花火をあげて、人々が歓喜しているかのようなイラストの下には、
「看護師500人確保依頼」
「自民党員のコロナ感染」
「聖火ランナー辞退」
「東京五輪『中止を』39% 『再延期』上回る」
という文字が並んでいます。
この画像には、たくさんの矛盾による裂け目が見えるようで、今の状況の象徴に思えました。
(正直に言うと、こんなに抑えたトーンの感じ方ではなく、
見た瞬間に、数々の違和感に気持ち悪くなって、“吐き気”をもよおすような感覚になりました。
おそらくその“吐き気”は、これを行なったのが広告代理店なのか、Yahoo!なのかはわかりませんが、
世論は関係なく、世の中をオリンピックが盛り上がる方向へ持っていきたいという安直で作為的な意図を感じたからで、
でも自分はそれを受け入れたくない、という微細な体の反応だったと思っています。)
オリンピック開催に突き進もうと苦しい辻褄合わせをするから、
スポーツそのものや、オリンピックの感動は嫌いではなくても、
そろそろ、辟易とする感情も出てきています。
(先ほど、ちらっとツイッターでオリンピックについてどんなことを皆さんが考えているのかを検索してみました。
ここにある声は、割と実感に近く、生の声だと思います。)
「看護師たちの限界線」
しばらく心の中に留めていた番組があります。
2021年4月17日にNHK総合で放送された
「看護師たちの限界線〜密着 新型コロナ集中治療室〜」はご覧になったでしょうか。
蜂がこの番組を見たとき、あまりにすっと入ってきたため、しばらく無になっていました。
“領域は違えど、かつて自分も’そこ’にいた”と、番組の内容がとても実感と近く感じたり、
かつての自分の未解決のものが、そこに浮かび上がっている気がしたりしていて、
この内容は病院の現場のことだけれど、他人事ではなく、
“あれから自分はどんな道を辿ってきたんだったっけ”と自分を振り返っていたため、すぐに感情が言葉に置き換わらずにいました。
あまりにも言葉にならなかったので、
番組をご覧になった他の方は、どんな感想を持たれたのかな、と思って、
ツイッターのハッシュタグ、#看護師たちの限界線で検索したりもしていました。
ここにも実感に近い思いが数多くあります。
かつて、素人なりにドキュメンタリーを制作して思ったのは、
どれだけありのままを映像で切り取ろうとしても、どうしても撮影者の意図が映像に入り込んでしまったり、
編集によって、さらに編集者の意図が入り込んでしまうことへの怖さでした。
ドキュメンタリーって、どこまで真の意味でのドキュメンタリーになれるのだろうか、と思ったことがあります。
しかし、「看護師たちの限界線〜密着 新型コロナ集中治療室〜」は、
自分の過去の体験と照らし合わせても違和感がなかっただけでなく、
忘れかけていた思いをえぐられ、
“どうして今、自分がここにいるのか”、
“どうして今の道を歩み始めたのか”、
“あの当時の疑問や違和感や気持ち悪さに対して、今の自分は何ができているのか”、を振り返らさせられ、
自分の中の、当時の傷つきやすい生の感情を思い出させてもらったような感覚さえありました。
人によっては、量的なものの見方を用いて、一部の現場のこと、と言う人もいるでしょう。
だけど、その内容に対して、ここにいる蜂は間違いなく、実感と近いものがあったと感じたということは、
同じように、実感と近く感じる方がいる可能性があるということで、
あの番組の内容は、何か昨今の社会の現状の普遍的なものを捉えている可能性が高い、と言えるのではないかと思っています。
これは量的なものの見方とは異なり、
一つの事例から普遍的なものを見つけようとする、質的なものの見方だと思います。
そうした意味で、この番組は、現場が本当にニュートラルに切り取られていたんじゃないかなと思っていて、
すごくいいドキュメンタリー番組だと思っています。
忙しすぎて表に出てこない、医療現場の方の声を、意思決定者が耳を澄まして聞き、本当に理解しようとせずに、
オリンピック開催に合わせて、男女平等とかSDGsなどを語っている姿に、
無関心の怖さや、医療従事者を踏み台にしているような気味の悪さを感じています。
もし、これからも、オリンピック開催の意義を広くわかってもらおうとするなら、
まず医療現場の質的な実態を理解しようとすることが先決だと思います。
2021年5月2日(日)にNHK総合で午前10:05から、2度目の再放送があるそうなので、
大会関係者で、まだ番組をご覧になっていない方は、
時間をとって、ご自身の目で見ていただきたいと思っています。
その上で、同じ要請や、オリンピック開催への調整議論が続けられるのかを、
大会開催の関係者がそれぞれご自身に確認していただきたいと思っています。
(自らの意図に近い内容でない放送は、気分を害することもあるかもしれませんが、
今は無駄にできるエネルギーはないはずです。
メディアは現場の声をすくい上げることに長けています。
(最近では、政治家の方にも、真の意味で現場に足を運んだり、綿密に現状を調べておられる方がいらっしゃいますね。)
裂け目は痛く、見るに虚しいものですが、そこから光が入る可能性があるとするなら、
世界中の医療従事者は疲弊しているということと、
オープンフォーラムの可能性と意味は、市民の側にだけでなく、意思決定者側にもあり、
それは、市民、IOCを含め世界各国に、コロナ禍でのオリンピック開催のガバナンスの複雑さを理解してもらう場となりうるということや、日本発の新たな形で、IOCとの相互信頼を形成できる可能性があるということだろうと思っています。)
2021年5月29日 追記
何のための緊急事態宣言
2021年2月末から3月上旬の時点では、オリンピックの開催可否の判断の期限は、5月末だったのが、
2021年5月28日に緊急事態宣言の延長が6月20日までに決まると、五輪開催可否の判断は、6月末にずれています。
緊急事態宣言は、日本国民の国内での人流を抑え、オリンピックや組織委員会を迎える道を開けるためのものでしょうか。
一ヶ月以上胸にしまっていたのですが、緊急事態宣言を受けて、ある飲食店では、本来なら営業したいし、しなければならない理由があるところを、社会的意義を自ら率先して考えて、休業にされている方がいました。
音楽家で、ライブが演奏者として1番エネルギーを解放できる場だけど、それをじっとこらえて休演を続け、定評のあるお人柄に違わず、周りの人を励まし続け、一年が経った頃「ライブがしてぇよ!」と叫んでいる方がいました。
人流を抑えることに協力してきた一人一人の努力と透明な志がなぎ倒され、傲慢さが道を通るような気さえしてきます。
感染対策の歪んだ判断
多くの人が声をあげているように、日本人がここまで自分の時間を割いて声をあげ、怒ることは珍しいのではないでしょうか。
パンデミックの今、一番透けて見えて、一番嫌気が差すのが、ダブルスタンダード(言っていることと、していることが違うこと)です。
五輪の感染症対策のバブル方式では、出入りする人の動きから、感染拡大の懸念が容易に想像できるのに、JOC、東京都、政府から、国民への直接の説明はなされず、海外から多くの人を迎えようとしていました。
JOC事務総長は、五輪期間中に感染者が出た場合に受け入れる病院名は公表しない、とありましたが、その病院に通院する人は、その期間の通院をどうするかなどのスケジュールも立てられないし、指定病院になっていることも知らされていないということですよね?
(生活者の視点から言えば、感染者数が少ないときなどを選んで通院することもあります。)
北海道でのマラソンのテスト大会では、一般ランナーの参加が中止となり、大会は午前中に開催され、午後に蔓延防止等重点措置を国に要請した、という流れもありました。
これらは、オリンピックを開催するという意図が、いかに本来の感染症対策の判断を歪めているかが見て取れる数々の例だろうと思います。
加えていえば、危機管理の基本は、起こりうる全ての可能性を洗い出して、最悪のケースに備えるのが鉄則のはずです。
そこから見れば、オリンピック開催への意図が感染対策の判断を歪めている度合いは、やりたい放題のレベルのような気がします。
(後に街頭インタビューで知ったのですが、子どもたちの運動会も中止になっていたんですね。
ワクチンを打っている選手と、子どもたちの管理は違う、と言うかもしれませんが、
子どもたちの運動会が中止になったり、それを見れない親御さんの我慢が、オリンピック開催への空間を作っているんですよね?
そうしたことに思いを馳せられないIOC委員の「緊急事態宣言下でも、五輪は開催する」という発言や、「アルマゲドンが来ない限り、五輪は開催する」という発言があったんですよね。
それはJOC会長がいう、「情熱」でも何でもなく、「その人の考え方や人柄」を如実に表していて、個人的には”話にならない”と思っています。
もう一歩突っ込んで、それらの発言が、どんな考え方や人柄かを表しているのだろうかと考えてみると、おそらく「自分たちは特別だから何をしてもいい」ということではないでしょうか。)
責任の所在を、文書で明確化
何かに没頭して取り組み、ゴールを目指す姿勢は大切です。
平常時に行われてきたオリンピックの裏話には、そうしたことを学ぶ機会がたくさんあります。
それと同じくらい、没頭している渦中から一時的に抜けて、没頭しているときには切り捨てていたものを眺め、全体を俯瞰する眼差しも必要だと思います。
五輪開催が自らの至上命題で、自らのアイデンティティーのようになっているから、中止になったらその先がないような気がして、怖いということはないでしょうか。
多くの報道番組で言われているように、最悪のシナリオは、「五輪の中止」ではなく、「閉会後に、異常な速度での強力なコロナウイルスの蔓延」だと思います。
それが現実のものとなったとき、総理大臣、都知事、JOC会長、開催に前向きなJOCの委員、スポンサー、そしてIOCは、どこで何をしているのでしょうか。
責任の所在がうやむやになるのが常ですが、最悪のシナリオが起きた場合の、責任の所在は明確になっているでしょうか。
強行開催すると言うのなら、少なくとも、文言にして、国民に提示してもらいたいと思います。
2021年5月28日に共同通信から、マレーシアで感染が拡大し、人口比でインドを超えたというニュースもありました。
台湾も感染拡大したり、今、アジアで感染が広がっているような気がして、正直言って、そもそも、五輪開催云々の議論どころではないのではないかと感じています。
2021/6/18追記
2021年6月18日に、日本記者クラブで、26名の感染症と医療の専門家のオリンピックに対する提言書が公表されました。
「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言」 (コロナ専門家 有志の会 note)
(東京新聞にも、新型コロナ対策の専門家有志が作成した提言書の全文のPDFと、データのPDFが掲載されていて、ビーレエションシップでは当初、そのリンクのみを貼っていましたが、よりわかりやすく説明されているのは、上記の太字のリンクです。)
「一次情報の大切さ」で思ったように、状況が緊迫している時ほど、一次情報に触れることは大切だと思っています。
逆を返せば、間を編集して伝えたり、解釈を付け加えることは、緊迫している時ほど避けた方がよく、それは、誤解や隠された意図の住処になってしまう可能性がある、と思うためです。
先ほど、今日の会見の録画を全て見ました。
(メディアによって報道の仕方の傾向があることを感じているため、
内容は同じかと思いますが、検索して出てきた順番に、それぞれの会社の動画を列挙しています)
いろいろな見方、受け止め方があるのでしょうが、
個人的には、説明がクリアでわかりやすく、頭にスッと入ってきて、聞いていて安心しました。
ずっと知りたかった、そして1年半以上あったにも関わらず、これまできちんと行われてこなかった、公的な感染対策のレイヤーにどんなものがあるのかも、わかった気がしています。
(会見とは、質疑応答が噛み合って、願わくば、やりとりによって1段階高い答えが導き出されたり、緊迫した内容であればあるほど、質問が出なくなるまで続けられるのが、やっぱり理想ですよね(台湾はこの方式でしたよね)。久しぶりに聞いていて、ホッとしました。)
この提言を受けて、6月21日に5者協議で、五輪の観客数の上限を決めるようです。
この5者協議とは何なのかなと思って調べてみると、日本経済新聞によると、
- IOC(開催地や日程を決める、五輪の主催者)
- IPC(実施競技を決める、パラリンピックの主催者)
- 東京都(会場、輸送、インフラの整備を行う、開催都市)
- 日本政府(水際対策、警備や自治体との調整を行う)
- JOC(競技の実施やチケットの販売などの運営全般を行う)
のことのようです。
形式的な権限の強さもこの順なのでしょうか。(実際は、一部違っているようにも見えますが)
蜂は、普段はこのような考え方は優先的に取り入れないのですが、
今日の会見を聞いたことで、責任の所在がどこにあるのか、が明確になったのではないかな、と感じていて、スッキリしています。
マイノリティのヒリヒリ感
五輪開催のために、ワクチンの接種率をこの一ヶ月で上げる、となっているのかもしれません。
ワクチンを受けたいと思う人が受けられる環境を作ることは、とても大切なことだと思います。
それで感染拡大が止められるなら、素晴らしいことだとも思います。
(レベルは違うのかもしれませんが、インフルエンザの予防接種は毎年受けています。)
…久しぶりに心がヒリヒリしたり、説明のできない黒いモヤが心に漂って、マイノリティの立場になったなぁ…、と思っていたのですが、
生活者の感覚で、身の回りで起きていることを見ていると、あまりにコロナのワクチン接種の促進に報道が偏っている気がしていたり、ワクチンの良い面ばかりが強調されすぎているような違和感も持っています。
以前は、「よく情報を集めて、摂取するかどうかを個人の判断で決めましょう」というバランスの伝え方だったのが、今ではワクチン接種によるネガティブな面の報道は少なく、「副反応があっても、効果が勝る」と専門家によって締めくくられます。
マスメディアしか触れない人や、集団の中で、受けなければいけない圧力に押される人はいるだろうな、と思います。
(まだ記録をつけていたり、他の要因がなかったかを思い出している途中なので、批判的に見てもらった方がいいのですが、ワクチン接種をした人に夜中に異変が起こらないように、同じ部屋で睡眠をとっていた人が、一週間後に、ワクチン接種者と同じ赤い発疹ができたり、いつもは遅れがちな生理が早く来たり、もともと複数の刺激源による蕁麻疹があったけれども、数年に渡り落ち着いていたものが、これまでの中で一番強い蕁麻疹が出たという現象がありました。一つ一つの現象の間に繋がりがあるのかはわかりませんし、こんなことがあるのだろうかという感覚の方が強いのですが、少なくとも、それらが近い時期に起きたということは、念のための記録になっています。)
繰り返しになりますが、ワクチンを摂取して、その人に副反応が少なく、効果があるとある程度わかるなら、決して反対の立場ではありません。
だけど日本では今が、ワクチンの副反応が出ている真っ只中だろうと思うし、その情報が少ない中で、マスメディアから伝わる雰囲気が、”ワクチン接種押せ押せムード”になることは、以前と雰囲気が変わっていて怖いなと思っています(もちろんワクチン接種は強制ではないですし、あまりに嫌な時は電源をオフにして、考える時間を作りますが)。
科学的に感染抑制が検証されたことはわかる、人に感染させないために、自分が感染しないために接種した方がいいこともわかる、だけど…(…例えば、人に感染させない、自分がかからないために、人の少ない地域にいた方が生活の質がいいんじゃないだろうか、とか、これから基礎疾患のある人への接種も始まるというけれど、基礎疾患がある人ほど、もっと詳細な情報がいるんじゃないだろうか…前のめりになって、苦しむ人が出るのではないのだろうか、など)というのが、言葉にできない中での率直な思いです。
ましてやワクチン接種が、特定の集団に対して、オリンピック開催への必要条件や、圧力にならないでほしいと思っています。
隔たりの狭間で
後で読み返すときの記録として書き残しておこうと思いますが、IOC委員の「緊急事態宣言下でも、五輪は開催する」という発言や、「アルマゲドンが来ない限り、五輪は開催する」という発言は、その人の考え方を如実に表しているように思えるし、話にならない、と思っています。
彼らには、ワクチンが万能で、自らの描くプランが万能だと思っていて、パンデミック禍では思わぬ小さな穴から感染が広がることや、それを自分たちの決断がもたらす可能性があることが見えていないんだと思っています。
そして感染が広がれば、再び日本経済が止まることも、他人事なのでしょう。
またJOCの会長は、これまでの発言から、日本や日本国民ではなく、IOCを見て動いているんだろうと思っています。
噂か誠かはわかりませんが、五輪が中止になれば、総理を辞任するという話も出てきていますが、もし本当なら、それは不思議な判断だなと思います。
支援者との兼ね合いなのかもしれませんが、国民の代表者が総理だった場合、世論が過半数を超えて反対している今、五輪の中止の判断をしたら、”国民を守った総理”になるのではないでしょうか。
(東京都、JOC、政府が繰り返している「安心安全の大会」とは、
「(政府にとって)安心安全(な人材で脇を固めて開催する)大会」と聞こえるようになっています。)
携帯料金値下げをアピールしたり、生活困窮者への支給をもし世間にアピールしているとするなら、それらも大事ですが、その根幹にある問題に向き合わなければならないと思います。
そして日本政府、東京都、JOC、オフィシャルパートナーズ、IOCの中でも、意見が違っていることも感じています。
ふとしたときに思うのは、例えば、外から民主主義を叫ぶよりも、自らが属するコミュニティ内の問題や矛盾を指摘する方が、はるかに、何十倍も難しいことです。
それを、ダブルスタンダードを全く感じさせずになさっている方々、”あぁ、この方は本心からそう思われて、そのまま行動にうつされているんだろうな”と感じる方々に、心からの敬意の念をこめて、頭を下げたい気持ちです。
個人的には、これまで権威と思われていたものや、「自分たちは特別だから何をしてもいい」と思っていたものが、内実はどうだったのが外に見えてきて、グラグラと揺さぶられているように感じています。
2021年7月21日 追記
あと数日で、東京2020オリンピックが始まるところまできました。
夏の暑さに包まれ、蝉の鳴く声が聞こえると、
蜂は、地面が揺れ、心臓を貫くかのように響く、野球スタジアムの応援の音を思い出します。
海外では、あらゆる制限が解除され、人々が熱狂的にスポーツを応援したり、バーで踊っている姿を目にするようになりました。
何かに本気になったり、一体感が生まれる瞬間は、本当に楽しく、やりがいを感じるものです。
人が熱狂を求めるのは、自然なことだと思います。
コロナ禍で、人々は”熱”の在処を探しているのかもしれません。
だけど、東京2020オリンピックにまつわる一連のことを振り返ってみて、一番心に蘇るのは、
JOCの元女性理事の毅然とした発言でした。
組織内で、異論を口にすることは、特に日本では、大変なことです。
実際に、現時点では、その方の提言通りの状況になっています。
また、「選手に罪はない」という決まり文句が漂うようになっていますが、罪があるとは思わないものの、それは果たして本当だろうか、と考えるようになっています。
このオリンピックは、これまでオリンピックを目指し、出場権を得た選手に、平等に出場の機会が与えられているだろうか。
感染状況を懸念して、出場を辞退した選手は、忘れられていないか。
感染して、棄権する選手を忘れていないか。
ここを指摘していた元女性理事の方の考え方に、
これまでのオリンピックの熱狂のタイプとは違い、
静かだけど、岩のように固い、”熱”が存在し得たのではないか、と感じています。
こうしたことを考えたり、一連のことを振り返った時に、
スポーツのフェア精神は、オリンピックに今も生き残っているのだろうか、と、
流れてくるあらゆるタイプの映像の上に、レイヤーとして、重ねて見えています。
これまでの経緯や、取り上げられていないことを忘れて、
今、という一瞬だけを切り取って、心躍らせることはできない。
そんな風に思ううちの一人になっています。