1人の偉大なリーダーは機能しない時代になっていると思いますが、1つの偉大な政党も機能していないのではないかと感じています。
国政レベルで1つの党がすべての分野においてバランスよく、おおよその人が納得できる案を出すことはもう難しいのではないでしょうか。
(1人のリーダーが機能しないということは私たちにも言えることで、それぞれ得意分野があり、得意な人に習って、教える側と教わる側が入れ替わったり、そのテーマについて詳しくなくても違う視点から見た案を出したりして、振れ幅が止まったところで決定し、次の段階に進みます。
進み方は遅いかもしれないけれど確実に進めるし、問題が起きたときでも元の意見が違っても、もともと話し合っているためにお互いに助け合える方法です。
これはミツバチが群れの命を預ける巣を作る場所を決めるときにもとる方法です。
ミツバチはそれぞれの個体が巣づくりに最適な場所を求めて単独で探索活動をし、群れに戻って自分が見つけた場所をアピールするダンスを行い、賛成できる方に各個体は移動して行き、群れの個体の移動が止まったところで、個体数の多かった案を採用するのだそうです。)
政党に票を託すのではなく、政策ごとに国民の票を託す国家統治の方法は作れないのでしょうか。
今の検察官定年延長法案の動きを見ていると、安保法案採決前を思い出します。
(嘘か誠か、決まってしまえば国民は忘れると話した大臣がいたとかいないとかで、さらに安保法案採決時には国会で乱闘騒ぎが起こり、それを尻目に笑みを浮かべる総理大臣と副総理大臣の姿を思い出します。
一応は国の話し合いの最高機関がこうしたプロセスと姿で物事を決定する様子を見ていると、腹にぐっと熱い石のようなマグマのようなものが生まれるのを感じ、こんな姿を未来の子どもには情けなくて見せられないと思っていました。)
(あの安保法案可決の様子を見たとき、幼い頃に「国会議員はみんなから選ばれた学級委員のようなものだ」と社会の時間に習ったことに違和感があったのを思い出しました。
確かに「国会議員はみんなから選ばれた」という点では事実だとしても、「学級委員のような」という例えに合点がいっていなかったのだと思います。
学級委員はどんな性格の人かわかっていて(たいていしっかり者でした)、全体をバランスよくまとめられる人だとみんなが一目置いていて信頼している人でした。
万が一おかしな采配をふるえば、友達から白い目で見られたり、制裁が返ってくることもありました。
だから余程おかしなことは起こらなかったです。
多くの場合国会議員は選挙のときにだけ見る人で、党内で党首を選ぶときには党内政治が働いていて、そこにもはや国民の意思は反映されていないように思います。)
国民全員に投票権があるのは、長い歴史の中で培われた先人からの財産であり、国民の投票によって政治家を選ぶ形は受け継いでいくべきものだと思います。
ただ政治家の性質は変わる必要があるような気がします。
国民や党内から政策ごとに様々な意見を出し合い、それを取りまとめたり、話し合いの場を設けたり、解説するのが国家議員になるのではないかという気がします。
政策の候補に対して国民の投票権があるのなら喜んで投票に行くし(あるいはオンラインで投票?)、ミツバチの巣作りのように、投票数だけでなく質的にも納得のいく案に落ち着くのではないかと思います。
ピーターが台本帳をバリッと破いたのを見たとき、二重の意味で感じるものがありました。
ジェームズ・バリがピーターをジッと見つめていたように、
またデリバリーをデリッバリッと伊都が聞き間違えて、後に障子をバリッと破る夢を見たように、
蜂の心にもバリッと破りたいものがあります。
そしてもし時代と時がカチッと当てはまって物事が動き、何らかの変化が起こった後の国家統治の方法はどうなるのか、そんなことを気づくと考えています。
(東日本大震災の時は胃が痛くなり無力感に包まれるばかりでしたが、今はできることがあるので淡々と行っています。
それでもそろそろスイーツが必要だ…!)
(2020.5.19追加)
どういうわけか上記の法案の見送りが決まったら今度は、国民投票法改正案を今の国会で成立させようとしているというニュースを見ました。
この記事で書いた通り、政策に国民の票を託す方法があってもいいのではと思っています。
だけど憲法を考え直すために国民の票をどのように託すかを定める法案は、今のこの時期に再び議題に出され、決定されるべき性質のものだとは思っていません。
憲法と政策の重みや性質は全く違います。
そもそも憲法は法律の上位に位置する最高法規で、憲法が縛るのは国民ではなく、公共政策の立案者と執行者です。
憲法改正へのロードマップとなる法案を政府が言い出すのは不思議な感じがします。
また、憲法は過去の痛みの上に成り立っているものなのではないでしょうか。
こういう過ちがあったから、これからはこうしよう、と、時代ともいえる長い時間の中での反省の蓄積が憲法なのではないでしょうか。
痛みを忘れているときや慌ただしく作ったときにあまりいいものができるとは思えません。※1
人の上に立ち続けると、多かれ少なかれ、どんな人でも感覚が麻痺していきます。※2
そのときに原点を思い出させるのが、憲法なのではないでしょうか。
社会科学と行政の原点でもある公文書が消えたり出てきたりと不可思議な動きをしたり(公文書がないとき何を元に話し合えばいいのでしょうか)、
COVID-19の対応で慌ただしいときに、沖縄県に辺野古の埋め立ての設計変更申請を出したり(問題の中核にいる沖縄県の人が嫌がることへの対応を求めるもので、傷口に塩を塗るようなものですよね)、
マイナンバーカードを通じたオンライン申請が機能していなかったり、
数だけに頼らない、質を深めた話し合いができていなかったり、
ボトルネックは内側にたくさんあります。
変化が表舞台で目に見えなくても、何もしていないように思えても、地味でも、内面が変容することが後に大きな礎になることがあります。
表面だけを見てなぞるのではなく、外を変えるのではなく、内側を深く見つめる時なのではないでしょうか。
参照:
(※1 どんな家庭や個人の中にも憲法に似たルールがあるはずです。
私たちのところにも、例えば今向かっているパソコンの画面の下に、パソコンの扱い方の4か条があります。
これは以前に荒い扱い方をしてパソコンが壊れたことがあるため、何に気を付けて扱うかを記述したものです。
おそらく浮かれムードの時や急き立てられるときに、どのように大切に扱うか感覚を研ぎ澄まして言語化することはなかったような気がします。)
(※2 「先生」と呼ばれる立場に長くいたとき、自分はそうではないと思っていても子どもにいらいらしている内心を見抜かれ、いつの間にか感覚が変わっている自分に気づいたことがあり、立場を離れて学び直さなければならないと思ったことがあります。)