chiran_peace_museum_003
chiran_peace_museum_003
知覧特攻平和会館

 

 

〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地

 

 

 

Mt. Kaimondake
Mt. Kaimondake

In the museum, last letters from teenage pilots of Japanese Special Attack Units to their family were exhibited.

At the end of the exhibition, there was a real Japanese fighter, which was raised from the seabed.

When Hachi was walking around it and watching its burned surface, the left wing was the same height as her right arm.

Then, she suddenly felt as if the fighter became hot and the left wing burned her right arm in a belt shape.
(Of course, she did not touch the exhibit. She is still wondering the experience.)

That made her stopped in front of the fighter for a while, and think that “if I was a mother of a teenage pilot, I would think I did not gave birth to him to be dead like this with a fighter…… I would be mad….”

She did remember what she was thinking about, but totally forgot the imaginary burn.

2020.8.17.

”平和”への周波数
”平和”への周波数

祖父は生前、知覧特攻平和会館を訪れた際に、
遺影や遺言が展示されているコーナーの前で一人たたずみ、涙を流していたそうです。

祖父は何を思って、涙を流したのか。

その場に行き、祖母からも話を聴いて、わかってきたことは、
祖父もまた特攻兵に志願して、鹿児島の知覧へ訓練に赴き、
少し年上の特攻兵が出撃する際に、彼らを帽子を振って見送り、
自分は一歳年齢に満たないために、出撃することはなかった経験を持つということでした。

祖父にとって、知覧は、
戦争を肌で感じながら降り立った、胸に刻まれている忘れられない地であり、
知覧特攻平和会館に掲げられている一人一人の遺影は、

間近で見た特攻兵への憧れ、海に散っていった少し年上の彼らを失った無念と悲痛、
自分は戦闘機に乗って出撃できなかったじくじたる思い、
その後わかってきた特攻の悲惨さなど、
あの時代の感情を思い出させるものだったのかな、と想像しています。

2021.8.28.

previous arrow
next arrow

 

※Mt. Kaimondakeが未訳なので、下記を添えます。

開門岳 Mt. Kaimondake


(知覧基地から飛び立った特攻兵が、開門岳を見て、もう故郷に帰ることはないんだな、と思ったという話を聞いたことを思い出したり、
開門岳は、どっしりとその場所にいながら、たくさんの特攻兵が出撃する様子をずっと見ていたんだな、と思ったりします。)

 

知覧特攻平和会館の最後の部屋に、海から引き揚げられたという、本物の焼け焦げた零式戦闘機があり、その周りをぐるりと歩くことできるようになっています。

展示品と人を隔てる柵はなかったので、見学者は、体の近くで、焼け焦げた金属の機体の表面を見ることができました。

 

焼け焦げた機体をぐるりと見て回って、”もう終わりだな…”と思ったとき、
機体の左尾翼はちょうど、の右腕の高さにありました。

 

そのとき、どうしたわけか、突然、機体が熱くなったかのように感じて(もちろん想像上です)、
「熱っ…!」と心の中で叫び、

(展示品なので、もちろん触れることもないのですが、)
機体の熱で、蜂の右腕がじゅっと火傷をして、ベルト状の火傷が残ったかのような気がしていました。

 

(想像上の)そうした感覚があったため、焼け焦げた零式戦闘機の前にしばらく立って、こんなことを考えていました。

”金属の塊がここまで焼け焦げて、穴が開くくらいに燃えるのだから、
どれくらいの高温になったんだろう…。

 

ここまで燃える金属の塊と一緒に、自分の子どもが焼け焦げて、海に落ちていくなんて…、

母親だったら、想像しただけで、発狂しそうになるよ…。

 

こんなことのために、お腹を痛めて産んだんじゃない……!って叫びたくなるはず…”

 

この時考えていたことは、はっきり覚えているのですが、
想像上の右腕の火傷の感覚は、すっかり忘れてしまっていました。

 

 

 

 

 

chiran_peace_museum_002

知覧特攻平和会館の入り口

鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館は、
第二次世界大戦末期の特攻兵の出撃前の遺書や、当時の状況を伝える資料などが展示されています。

第二次世界大戦末期に日本の軍事的体力がなくなってくると、
飛行機に片道分だけの燃料を詰めて、少年特攻兵が、知覧基地から沖縄へ向かって飛び立ち、
死を覚悟して敵艦に体当たりをする特攻作戦がとられました。

相手国には気が狂っている作戦に見えていたようです。

館内を回っていると、特攻兵として命を落とした特攻兵の遺影が、壁一面に並べられていて、
特攻部隊第1期、第2期と時期ごとに展示されています。

特攻作戦を開始した当初の特攻兵の年齢は、最年長で24歳くらいでしたが、
数か月の時を経るにつれ、特攻兵の年齢は15歳前後と若くなっていきます。

遺影の全体的な雰囲気がどんどん幼くなっていくのを見ると、どんどん戦況が悪化していったことがうかがい知れます。

特攻前の遺書を読むと、
”国”のために戦おうとする正義感や、死を前に自分を奮い立たせる気持ち、残す家族を思う気持ちが綴られていて、
あまりにもかけ離れた気持ちが、同じ人の中に存在していたり、
時代の渦の中にあった人の思いを、手書きの文字で直に読むと、
血が逆流しそうになるくらい、こちらも苦しくなっていきました。

 

Chiran Peace Museum Sankaku Heisya

Photo by Kuwa。. 写真AC

 

 

遺書に見られるような、自らを奮い立たせる気持ちの裏で、
三角兵舎で出発の前夜に、枕に顔を押し当てて、すすり泣く声が聞こえたり、
特攻兵が出た後には、枕がびっしょり濡れていた様子もあったそうです。

(表向きは死への恐れを抑え込んで前へ前へと進み、裏では声を押し殺して泣くという、この強い乖離は、どうして生まれたのでしょう。)

 

また志願した特攻兵は日本国籍の人だけでなく、朝鮮籍の人もいたそうで、
戦争にきれいな区切りはないことを感じずにはいられませんでした。

 

当時の日本では、特攻兵として体当たりをした兵士は、英霊として神様になる、と教えられていました。

何をよしとするかを、集団的に教え込まれる怖さを感じずにはいられず、
その渦中に入った場合、自分にできることはあるのだろうかと考えると、答えが出ませんでした。

 

 

 

 

特攻作戦を指揮した司令官は、誤った判断をして、多くの少年を死なせてしまった、という後悔の念から、
後に切腹自殺をした、という当時の新聞記事も展示されていました。

 

 

chiran_peace_museum_001

知覧特攻平和会館の入り口前の灯篭

 

 

 

 

知覧特攻平和会館について触れた記事が、ビーレエションシップ内に散らばっているから、まとめたいとずっと思っていましたが、
自分の体に落とし込みながら進めるのに、精神的に力が必要で、なかなか取り掛かることができませんでした。

 

(書いている今も、やはり心拍数が上がっていて、変な汗をかいています。また言語が統一されていなくてごめんなさい。)

 

 

ふと、”20世紀の大戦で命を落とした方々が、地面に縛られずに、空へと浮かび上がっていってほしい*”という、変な想像をしたりするのですが、
それも一筋縄ではいかないのかな、となんとなく感じる日々です。

 

 

それでも、資料が残されているから、過去を知り、何を変えるべきかがわかる、と思っています。

 

 

 

最後に、自分の心拍数を落ち着けるために、次の3曲を添えておきたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

ビーレエションシップを探検!