自分の感覚を見つける旅

london night

 

カラフルなマットの修理の話では、80代の伊都が、捨て去りそうになっていた自分の刺繍作品に、独自性を見つけたことから、
「自信を持つということは、自分の感覚を大切にするということではないか」というテーマにたどりつきました。

その話を書いているときに、の心の中では、こんな声が聞こえていました。

自分の感覚を見つけ出して信じられるように、人を支えることが、
自分にとって自然なことのように書いているけれど、
昔からずっと自分に自信があったわけじゃなかったし、

自信を持つってどんな感じなんだろう、と感覚がつかめずに悩んだこともあった。

 

その話を飛ばしてはいけないような気がする。

 

 

 

記事は推敲を重ねているので、書いた人の最善の状態が表現されています。

またビーレエションシップは、関わってくださる方の間にあるテーマを追うことを心がけていることもあり、蜂自身の話を書くことには戸惑いもあります。

だけどもし、蜂が長い間、右往左往してきた話の中から、何か共通するものを言葉として浮かび上がらせることができたのなら、それには意味があるかもしれない。

そう気持ちを奮い立たせ、蜂の自信がなかった時期から、自分を信じることができるようになるまでの、試行錯誤の日々について、書いてみたいと思います。

 

 

自分の感覚を見つけきれなかった学生時代

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自信というのは、「自分を信じる」と書く、と聞いたことがあります。

自信を持つとはどういうことかが、ずっとわからずにいた蜂は、
それがとても腹に落ちたので、ずっと記憶に残っています。

 

友達の指摘

蜂の高校時代は楽しくて、人生の中でも充実していた3年間でしたが、
その裏で、ささいな悩み多かったり、自分の中の不確かな感覚に悩んだ記憶があります。

悩みを相談するのはもっぱら友達だったのですが、あるとき悩みを相談した友達に、こう言われたことがあります。

「○○(蜂)は、人の意見を聞きすぎる。私の意見は聞かないで、自分で答えを見つけた方がいいと思う。」

その友達は、蜂の相談にどう答えるかを、授業中に(!)真剣に考えていたら、こういう答えが出たのだそうで、
忘れないように授業の間の15分休みに蜂を廊下に呼び(クラスは違っていました)、
二人で並んで、中庭を眺めながら、そんな話をしてくれました。

それは厳しくも温かく、本当のことを照らし出してくれていました。

自分の感覚を見つける旅は、一人でするものだけど、
応援してくれる人がいるということを、暗に伝えてくれていました。

友達が指摘してくれたように、
当時の蜂は人の意見を聞きすぎたり、よく周囲に流されていていました。

悩みを相談してアドバイスをもらえば、それを試してみていたということは、
アドバイスをくれる人が変われば、蜂が試す内容も変わるので、
確かな何かを自分の中に見つけ出すことができずにいました。

素直といえば素直ですが、これでは基盤はぐらぐらしていて不安定です。

 

こうして蜂はいよいよ、自分を信じるための根拠となる、「自分の感覚」を見つける旅が始まりました。

 

 

協調性と勤勉さの学習とグループに所属している安心感

小さな子どもが集団生活を学び始めると、協調性を学ぶための多くのプログラムに出合うことになります。

学校教育もその一つです。

1990年代の蜂が受けた日本の学校教育では、学習する内容は一律で決められていたので、テストでよい成績を残すためには、決められた内容を理解し、定められている答えを答えられるようになることが求められていました。

また、休み時間、お昼の時間、移動教室の授業の際に、一緒に行動する友達がいることが、何より大切な空気がありました。

どうすれば友達と仲良くなれて、何をすれば友達が嫌な思いをするのかを学ぶ時期だったのだと思います。

やるべきことを自分で考えなくても、周囲を見ればわかるし、
仲間からの刺激を受けてやり切ったり、みんなの中で頑張っているという心地よい連帯感もありました。

 

一方で、こうした環境では、自分の好きなテーマを見つけて取り組むということは、よほど意識しない限りなかなか起こりえません。

夏休みの自由研究や学校のイベントがその機会なのだと思いますが、打ち上げ花火のように一瞬の出来事です。

グループに所属している安心感に守られて、自分が周囲から外れていないか見渡すことが習慣となり、与えられた課題をこなす学生時代でした。

 

そうした強力な習慣を持ったまま大人になると、グループに所属して仕事をしていれば、それ以上の怖さはなく次の日はやってくるし、
帰り道にふと、この生活がずっと続くのかな、と思うことはあっても、
それも瞬間的なもので、深く気に留めなればすぐに消え去っていきました。

協調性と勤勉さを学んでいた時期に、
それ以外にも、学ぶべき方向性がある、とは思いもよらず、
自分はどうしたいのか、という軸に立ち返って、物事を考えてみる作業はいつも省かれていました。

 

 

自分を信じるための鍛錬

london night

 

こんな幼少期から青年前期を過ごしてきたので、
自分のことよりも、人のことを考えるほうが先に来るようになっていました。

そんな自分が嫌だったわけでもなく、
漠然と、人の話を聞いて、悩みの答えを見つけるサポートをすることが、自分の得意なことだろうという感覚はありました。

ただ前にも書いた通り、その感覚はしっかりとした個をつかんだ基盤の上にある感覚ではなかったので、周囲の影響を受けやすく、安定しているとは言えませんでした。

セラピストとして、人をサポートするために提唱された姿になるように、自分の姿を変形させることを優先していて、自分の感覚や違和感は、二の次でした。

 

では一体、横に置いていた自分の感覚や違和感とは、何だったのでしょうか。

 

 

スランプと課題

20代後半になると、漠然と憧れていた世界のドアは一つずつじわじわと閉ざされ、人生のなかで取り組まなければならないといわれているようなテーマだけが残るようになりました。

30歳前後、60歳前後、90歳前後では、その人の人生で無駄なことはすべてそぎ落とされ、取り組まなければならないことだけが残されるという、人生の再構成がうながされる時期と聞いたことがありますが、このときの蜂もその時期を迎えていたようです。
(80代の伊都が、カラフルなマットから自分のオリジナリティを見つけ、体調を整える努力をしながら、刺繍を先に進める流れに入ったことも、もしかするとこうした出来事の一部だったのかもしれません。)

この時期は、人生の迷子になったかのような感覚が長く続き、朝起きるときも不安でいっぱいで、どこからどう始めればよいのかの見当もつかずに、手探りで進まざるをえない感覚が、毎瞬続く日々でした。

このとき蜂は、以前のように、誰かの話を聞いて助けになることで、自分の存在意義を感じられる、という、それまでのアイデンティティは何の助けにもならなくなっていました。

 

英語の習得

こうした状況の中、蜂の目の前にやってきた課題は、意外なことに、内面に取り組むものではなく、
例えば、英語の習得が1つ目のテーマでした。

今でもその発展途上ですが、当時は、英語を読んでも聞いても、何も頭にひっかからない状況でした。

 

具体的にどんな場面に合わせた英語がいるのか。

確実に身につくようにするには、どうしたらよいのか。

 

昔のように、与えられたものや、みんながいいという方法で取り組むのではなく、
今自分はどのレベルにいて、

それを補うためにはどんな教材がよいか、

どのように勉強したらよいのか。

 

 

そんなことを自分で考えて、自分でプログラムを組み立てる必要がありました。

 

いざ勉強を始めると、始めは身につくわくわく感がやってきますが、やがてスランプ期も訪れます。

ある日、この勉強が本当に未来につながるのだろうか、と不安になって目に涙がたまり、
テキストが見えなくなって、しばらくテキストを開けなくなった時期もありました。

今の自分が当時の自分にアドバイスするなら、
恐怖に耳を貸さずに、とにかく手を動かし続けることを薦めると思います。

自分に必要だと感じたことを、ただひたすら繰り返すことで習得できる技術と心得があり、
それらが内心の恐怖を溶かすと感じるからです。

 

何年かかかって一冊のテキストを終えたとき、達成感と共に実感したのは、
学習というのは学びたいときが一番吸収できるときでなんだということでした。

こうした体験をもっと幼い頃からしたかった、という思いは、教育システムに再び関心を向ける契機にもなりました。

 

 

朝の内省ノート

この時期に、もう1つ欠かさずに取り組んだのが、毎朝ノートに、自分が何を感じていて、心の底ではどの方向に向かいたいのか、など、心に浮かぶことをそのまま書くことでした。

自分にとって大切なことは、何度も何度も文字になって現れてきます。

やがて、「じゃあ、いつそれに取り掛かるの?」という気持ちになってきて、次の課題がおのずと設定されます。

 

今では、この作業はとても効果があると言えるのですが、当時一人で机に向かっているときは、
本当に先につながるかもわからない作業を、誰に気づかれることもなくするのですから、悪い意味での孤独そのものでした。

その孤独に耐えるために、いい意味での孤独の大切さを説いた本を読んで、やる気を取り戻して、また作業に戻っていました。

そのため、物事が拡大することに進むことはほとんどなく、深める方向にばかり進むため、精神的なエネルギーが必要でした。

本当に苦しいばかり時期でしたが、知らず知らずのうちに慣れていった感覚は、精神的なエネルギーの枠を当時よりも広げてくれ、現在の鍵になっていると思います。

 

課題に繰り返し取り組んで見えてきたもの

もう一度戻りたいとは思えない日々でしたが、今ならわかることもあります。

あの時期は、物事を探究するための、集中的なトレーニング期で、そのプロセスに慣れて、自然にできるようになるまで、一人で繰り返し行って慣れることが必要な時期だったのではないか、と。

一度その感覚に慣れてしまえば、いつでも、どこにいても、一人静かな探求に取り組む時間を作れるようになるし、集中できない状況の見分けもつくので、以前のように無駄に心が削られることはなくなります。

また、物事は拡大するばかりではなく、深化する方向にも進むこともあるという実感は、うまくいかないときにも、俯瞰する習慣を身に植え付けてくれました。

当時の自分に会えたならば、お茶を飲みながらこんなことを話し、
苦しい時期の踏ん張りは、決して無駄にならない、ということを伝えたいと思います。

 

 

内向的な人の持つ力

The Historic House and Art Gallery

 

 

そんなつらい日々の中でも、うれしいこともありました。

ある日、スーザン・ケインの「内向的な人の持つ力」というTEDプレゼンテーションを見たのです。

 

 

Cain, S. (2012, February). スーザン・ケイン: 内向的な人の持つ力. [Video file]. Retrieved from https://www.ted.com/talks/susan_cain_the_power_of_introverts

9歳の時初めて サマーキャンプに参加しました
母はスーツケースいっぱいに 本を詰め込んでくれましたが 私にとってはごく普通のことでした
私の家では 読書が主たるグループ活動だったからです
非社交的だと思うかもしれませんが 私たちにとっては それが一種の交流方法だったのです
家族が揃っていて 人の温かみを身近に感じながら 同時に 心は冒険の国を好きに 飛び回らせることができるのです
キャンプというのは それの デラックス版なんだと思っていました (笑)
10人の女の子が山小屋でお揃いのパジャマを着て 楽しく一緒に読書するのを想像していました

(笑)

でもキャンプは いわばアルコール抜きのどんちゃん騒ぎでした
キャンプ初日に世話役の人が 私たちを集めて チアを教えました
キャンプの精神が身につくよう これから毎日やるんだと
こんな感じです
「R-O-W-D-I-E (騒がしく) これがROWDIEの綴り方 ROWDIE ROWDIE さあ騒がしくいこう!」
ええ どうしてこんなに騒がしくするのか まったく訳が分からなかったし 何で間違った綴りを言わされるのかも分かりませんでした
(笑)
それでもチアを覚えました
他のみんなと一緒に 一生懸命やりました
心の中では ただひたすら 早く解放されて 本を読みたいと思っていました

でもスーツケースから本を取り出していたら 部屋で一番いけている女の子が来て 「何でそういつも物静かにしているわけ?」と言いました
物静かというのは確かに R-O-W-D-I-Eとは反対ですね
その次に本を読もうとしたときには 世話役の人が心配顔でやってきて キャンプの精神を繰り返し みんな めいっぱい活動的に やらなければならないと言いました

それで 私は読むのをやめて 本をスーツケースの中に戻すと ベッドの下にスーツケースを押し込んで キャンプが終わるまで 本はずっとそこにありました
そのことで何か罪悪感を感じました
本たちが自分を必要としているように思え 私を求めているのに見捨ててしまったように感じました
でも夏の終わりに家に戻るまで 私は本たちを見捨てて スーツケースを 開けることはありませんでした

今回はサマーキャンプの話をしましたけど 50個くらいある似たような体験のどれでも良かったんです
静かで内向的なのは正しくない
もっと外向的な人間として認められるよう 努力すべきだというメッセージを いつも受け取っていました
そして心の中で そんなの間違っている 内向的なことに— 悪いことなんてないのにと感じていました
でもそういう直感をずっと押し殺していて こともあろうに金融街の弁護士になりました
ずっとなりたかった作家ではなく・・・
自分だって大胆さや自信を持って行動できると 証明したかったというのもあると思います
そして賑やかなバーによく出かけました
本当は友達と落ち着いて食事したい気分のときでも・・・
そういう自己否定的な選択を ほとんど反射的にしていて 自分ではそんな選択をしていると気づいてもいませんでした

そんな風にしている内向的な人は多く もちろん本人にとって損なことですが 同時に同僚や コミュニティにとっても損失であり 大げさに聞こえるかもしれませんが 世界にとっても損失なのです
なぜならクリエイティビティやリーダーシップという面で 内向的な人に実力を発揮してもらう必要があるからです
全人口の 3分の1から 2分の1は 内向的です そんなにいるんです
皆さんの知り合いの3人か2人に1人は 内向的だということです
だから たとえ皆さん自身が外向的だったとしても 同僚や 配偶者や 子どもたちや 今隣に座っている人は内向的かもしれません
その人たちはみんな 社会に深く根ざした 現実の偏向によって不利を被っているのです
私たちはみんな それを言い表す言葉も知らない— 幼い時期から 自分の中に取り込んでいるのです

その偏向がどんなものか把握するには 内向的なのがどういうことか理解する必要があります
これは内気とは違います
内気というのは 社会的に判断されることへの怖れです
内向的であるというのは 社会的なものも含め 刺激に対して どう反応するかということです
外向的な人は多くの刺激を強く求めますが 内向的な人はもっと静かで 目立たない環境にいる方がやる気になり 生き生きとして能力を発揮できるのです
いつもそうとは限りませんが 多くの場合そうだということです
だからみんなが 持てる才能を 最大限に発揮できるようにする鍵は その人に合った刺激の中に 身を置くということなのです

しかし ここで偏向の問題が出てきます
もっとも重要な組織である 学校や職場が 外向的な人向けに作られており 外向的な人に合った刺激に満ちているのです
さらに今の世の中に行き渡っている ある種の信念体系があって 「新集団思考」と私は呼んでいますが 創造性や生産性はもっぱら 何か社交的な場から生まれるのだと考えられています

最近の教室はどんな風でしょう?
私が子どもの頃は 机が縦横に並べられていて ほとんどの作業を 個人個人で 自律的にやっていました
でも近頃の教室では 4人から7人ごとの島になっていて 子どもたちは無数のグループ作業を 次から次へとこなしています
思考力を単独飛行させて挑むべき 数学や作文でさえその調子で 子どもたちは委員会のように振る舞うことを期待されています
単独行動したり 1人で作業するのが好きな子は はみ出し者とか さらには 悪くすると 問題児と見られてしまいます
教師のほとんどは 理想的な生徒は内向的でなく 外向的なものだと思っています
実際には内向的な方が成績が良く 知識があるにも関わらず・・・ 調査結果によるとそうなんです (笑)

同じことが職場についても言えます
多くの人が壁のない開放的なオフィスで 仕事をしています
絶えず雑音や 他人の視線にさらされています
そしてリーダーシップが必要な役職からは 内向的な人はいつも除外されています
内向的な人は注意深く 危険すぎる– リスクは避けるという長所があるのに
もっとも近頃では大きなリスクを取るのが好まれているみたいですけど・・・
ウォートン経営大学院のアダム・グラントが興味深い研究をしています
内向的なリーダーは外向的なリーダーよりも 良い結果を生むことが多いというのです
内向的なリーダーは 積極的なメンバーが アイデアを出して活躍できるようにさせる一方 外向的なリーダーは 気づかぬうちに 何でも自分で仕切ることに 夢中になって 他の人のアイデアがなかなか 活かされないようにしてしまうのです

実際歴史上で変革を成し遂げたリーダーには 内向的な人が たくさんいます
たとえば— エレノア・ルーズベルト ローザ・パークス ガンジー
彼らはみんな自分を無口で 静かな話し方をする むしろ内気な人間だと言っています
そして彼らは表に立つことを 心底嫌っていたにもかかわらず
世の注目を浴びることになりました そのこと自体が彼らに 特別な力を 与えています
人に指図したり 注目を浴びるのが 好きでやっているのではなく 自分が正しいと信じることのため 他に選択肢がなくてやったのだと みんな気づくからです

誤解がないように言っておきますが 外向的なタイプの人は むしろ好きです
最も親しい人の何人かは 愛する主人も含め とても外向的です
そして私たちはみんな 極端な内向型から 極端な外向型までの間のどこかに当てはまります
内向的・外向的という言葉を広めたカール・ユングさえ 純粋に内向的な人や 純粋に外向的な人というのはいなくて たとえいたとしても 精神病院の中だろうと言っています
内向型と外向型のちょうど中間 というような人たちもいて 両向型と呼ばれています
彼らは両方の良い面を併せ持っていると思えることがあります
でも多くの人は 自分はどちらかだと思っています

私が言いたいのは 社会として両者をもっとうまく バランスさせる必要があるということです
陰と陽のように両方必要なのです
これは特に創造性とか 生産性といった面で重要になります
極めて創造的な人々の人生を 心理学者が研究したところ 彼らはアイデアを交換し 発展させることに 優れている一方で 非常に強い内向的な面を持つことが分かったのです

孤独が得てして創造性の 重要な要素になっているからです
ダーウィンは 1人で森を長時間散歩することが多く パーティの招待はきっぱり断っていました
ドクター・スースとして知られるセオドア・ガイゼルは あの数々の素晴らしい創作を カリフォルニア州ラホヤの自宅裏にある 孤独な塔のような書斎で生み出しました
彼は本当のところ 読者である小さな— 子どもたちに会うのを 怖れてさえいました
無口な自分は 陽気なサンタのような— 人を想像している子どもたちを きっとがっかりさせてしまうと思ったのです
最初のアップルコンピュータを作った ウォズニアックは 当時働いていたHPで いつも自室に1人閉じこもっていました
子どもの頃いつも家に閉じこもっているような 内向的な性格でなければ そもそも技術を極めることも なかっただろうと言っています

これはもちろん 共同作業など一切やめろということではありません
ウォズニアックがジョブズとアップルを始めたのが 成功した共同作業の良い例です
その一方で 孤独もまた大切であり ある人々にとってそれは 呼吸する空気のようなものなのです
実際私たちは何世紀にも渡って 孤独の持つ超越的な力を知っていました
それを忘れるようになったのはつい最近のことなのです
世界の主要な宗教を見ると どの中にも探求者が現れます モーセ イエス ブッダ ムハンマド・・・ 探求者は1人で荒野をさすらい その中で顕現や啓示を得ます
そしてそれを みんなのいる コミュニティへと持ち帰るのです
だから荒野なくして啓示はないのです

現代心理学の知見に照らすなら これは不思議なことでも何でもありません
グループの中にいると 他の人の意見を 無意識にまねるようになってしまうのです
どんな人を魅力的に感じるかというような 一見個人的で直感的なことでさえ それと自覚することなく 周りの人の見方に 追従するようになります

グループというのは その場の支配的ないしは カリスマ的な人の意見に従うものです
優れた話し手であることと アイデアが優れていることの間に相関なんて 全くないにもかかわらず — ゼロです
だから・・・ (笑) 一番良いアイデアを持つ人に従っているのかもしれないし そうでないのかもしれません
でも本当に運任せにしておいて良いのでしょうか?
みんな1人になって 集団の力学による歪みを受けずに 自分独自のアイデアを考え出して それから集まって ほどよく調整された環境で話し合う方が ずっと良いのです

これがすべて本当なら なぜ私たちはこれほど間違ったやり方をしているのでしょう?
なぜ学校や職場をそんな風にしたのでしょう?
内向的な人が時々1人に— なりたいと思うことに なぜそんなに罪悪感を持たなければならないのでしょう?
1つの答えは文化の歴史的変遷の中にあります
西洋社会 とくにアメリカにおいては 常に「考える人」よりも 「行動する人」が好まれてきました
特に男性の場合 しかしアメリカでもその初期においては 歴史家が「品性の文化」と呼ぶ時期があって 人の内面や倫理的な清廉さが 重んじられていました
当時の自己啓発書を見ると 『品性の修養』のような 題名が付いています
そしてロールモデルとして出てくるのはリンカーンのような 謙虚で高ぶらない人です
エマーソンはリンカーンについて 「自分の優位性で人を不快にすることが決してない」と言っています

しかし20世紀になると 歴史家が「個性の文化」と呼ぶ 新しい文化の時代に入ります
農業経済から 大企業中心の世界へと発展し 人々は急速に 小さな町から 都市へと移り住むようになり 子どもの頃からよく知っている人たちと一緒に働く暮らしを捨て 知らない人の集団の中で 自分の能力を 示さなければならなくなりました
そして必然的に 魅力やカリスマ性のような資質が 突然重要になったのです
その結果 自己啓発書も新しいニーズに合わせて変わり 『人を動かす』のような 題名が付くようになりました
そこでロールモデルになっているのは 優れたセールスマンです
それが私たちの今住んでいる世界です 私たちが文化として継承しているものです

これまでの話は 別に— 社会的スキルが重要でないということではありません
チームワークなんか捨ててしまえと 言っているわけでもありません
賢人を孤独な山頂に向かわせたのと同じ宗教が 私たちに愛や信頼を教えているのです
科学や経済といった領域で 私たちが今 直面している問題は 非常に大きく複雑で 解決するには大勢の人が 手を携え協力する必要があります
私が言っているのは 内向的な人がもっと自分に合ったやり方で できるようにすれば 彼らがそういう問題に 独自の解決法を考え出してくれる可能性が高くなるということです

私のスーツケースの中身を お見せしましょう
何が入っていると思いますか?
本です
スーツケースいっぱいに本が入っています
マーガレット・アトウッドの『キャッツアイ』 ミラン・クンデラの小説 マイモニデスの 『迷える者への導き』
でも 正確に言うと私の本ではありません
この本を持ってきたのは 祖父のお気に入りの著者の本だからです

祖父は 男やもめのラビで ブルックリンの小さなアパートに1人で暮らしていました
そこは子どもの頃私が世界で一番好きだった場所です
1つには祖父の優しく奥ゆかしい存在がありましたが もう1つは本でいっぱいだったからです
アパート中のテーブルも椅子も 本来の役割を捨てて 高く積まれた本の山の土台と化していました
私の家族のみんなと同じで 祖父もまた何よりも本を読むのが好きでした

でも祖父はまた教会の集まりも好きでした
62年間ラビとして毎週与え続けた説教に その愛を感じ取ることができます
毎週の読書から素敵なものを選り抜いて 古風で人間的な思想の繊細な織物を織り出していました
そしてたくさんの人が 祖父の話を聞くために集まっていました

しかし 祖父の問題は 儀式上の役割を果たしながらも 本当はすごく謙虚で内向的な人柄だったことで 説教をするときに アイコンタクトをとるのが 難しいほどでした
62年間説教してきた まさにその— 聴衆が相手であるのに関わらずです
演台から下りてさえ そうで 誰かと世間話をしていても 突然 会話を打ち切ることがよくありました
相手の時間を長く取り過ぎてはいないかと 怖れていたのです
でも祖父が94で亡くなったとき 警察は近所の通りを通行止めにする必要がありました
あまりにたくさんの人が 追悼に訪れたためです
だから今では私も自分なりに 祖父の模範から 学ぼうと努力しています

最近内向性についての本を出したんですが 書くのに7年かかりました 私にとってその7年は至福の時でした ひたすら読書し 書き 考え 調査する 祖父が書斎で1人過ごしたのと 同じ時を私も過ごしたのです しかしここに来て突然私の仕事が大きく変わりました 人前で話すという仕事— それも内向性についてです (笑) 私にとってはすごく難しいことです 皆さんの前に立つことは とても光栄なんですが 私にとって自然な状況ではないのです

だからこのような場に備えて 随分と努力しました
去年はあらゆる機会を利用して スピーチの練習をしました
今年は「危険なスピーチをする年」だと肝を据えています (笑)
練習はとても役に立っていますが さらに私を力づけている 感覚 信念 希望があります
それは内向性や無口や孤独に対する 人々の態度が劇的に変化する 一歩手前にあるということです
本当にそうです
この展望を共有して頂ける方に 3つの行動の呼びかけを したいと思います

1番目 絶えずグループ作業するなんて狂ったことはやめましょう
すぐにでも
(笑いと拍手)
ありがとうございます
(拍手)
はっきりさせておきたいんですが 職場では うち解けた カフェのようなおしゃべりによる 交流を促すべきだと思います
人々が会って 思いがけないアイデアの 交換をするようなやり取りです
これは内向的な人にも 外向的な人にも素晴らしいものです
でも職場にはもっとプライバシーが もっと自由が もっと自律性が必要です 学校も同じです
子どもたちに一緒に作業する方法を教えるべきですが 独りで作業する方法も教える必要があります
これは外向的な子どもにも重要です
独りで作業する必要があるのは それが深い思考の生まれる場所だからです

2番目 荒野へ行きましょう
ブッダのように 自分の啓示を見つけましょう
みんな今すぐ出かけて 森の中に小屋を作り もう互いに話すのをやめましょうと 言うのではありません
そうではなく 気を散らすものから離れ 自分の思索に耽る時間を もう少し増やしましょうということです

3番目 自分のスーツケースの中身をよく見て なぜそれを入れたのか考えてみましょう
外向的な方 スーツケースには 本がいっぱいかもしれないし たくさんのシャンペングラスか スカイダイビングの装備が入っているかもしれませんね
それが何であるにせよ 様々な機会にそれを取り出して 自分のエネルギーと喜びを他の人にも分け与えてください
内向的な方 性格柄— きっと自分のスーツケースの中身を 守りたいという衝動を感じると思います
それはいいんです
でも時々は スーツケースを 開いて見せてほしいのです
世界はあなたと あなたが持っているものを必要としています

皆さんに最良の旅と 自分らしく静かに話す勇気がもたらされますように

どうもありがとうございました

(拍手)

ありがとうございます

(拍手)

 

このTEDプレゼンテーションを偶然聞いたことは、蜂にとって幸運で、衝撃的な出来事でした。

プレゼンテーションの冒頭のスーザン・ケインの少女時代のエピソードを聞いた時、”この感覚わかる…!”と衝撃が走り、似たようなエピソードが、走馬灯のように頭の中を駆け巡り、なぜ自分に自信が持てないのかがわかった気がしたからです。

 

内向的な部分が嫌いだった

それは、自分の内向的な部分を、自分が嫌っていたからでした。

 

考えすぎ

例えば、学生時代に友達の前では、考えていることをあまり表に出さないようにしていました。

頭の中にあることを話すと、友達によく「考えすぎ!」と、嫌な意味ではないのですが、よく笑われていたので、
それは封印し、みんなとはしゃぐようになりました。

無理をしていたときもあったけれど、それはそれで楽しかったのです。

でも友達の輪から離れたときに、自分の足で歩んでいくための自信は、自分の中に育っていませんでした。

一人静かに考えるときに思ったことは、

 

”確かに、無駄に考えているところもあると思うけど、

その部分も含めて、感じることについて整理したい”

 

 

ということで、その方法を必要としていたのです。

 

話すのが苦手

TEDプレゼンテーションでは、スーザン・ケインが「書く期間が終わり、本の内容を、たどたどしく話す年になった」と冗談交じりに話していましたが、
蜂はこの感覚がよくわかる気がしていて、蜂も書くことのほうが好きで、話すことは得意ではありません。

自分の話をするよりも、聞くほうが多く、
自分の話をする時には、内心では、

 

”話し過ぎ?”

”人の時間をとっていない?”

 

と気になってしまうのです。

自分から話しかけたり、話す量がそう多くないため、
人から見ると、ぼーっとしているように見えたり、理解しにくい人に見えることもあるようです。

そうしたことが内向的な性格の特徴だとは知らず、
話がうまくならないといけない、と思って、変わるように自分に課していたこともありました。

 

内向的な部分を活かすための試行錯誤

初めてこのプレゼンテーションを聞いたときに、とても印象に残ったこと。

それは、内向的な人は刺激の少ない環境を好むこと。

他の人の気配を感じながら、それぞれの世界に入り込むことが心地よいこと。

グループワークばかりを奨励するのではなく、一人で探索することも大切で、刺激の程度が合う環境を作り出す必要性もあること。

内向的な性格でも(だからこそ)、創造性やリーダーシップを担えることがあること。

内向的な人は、自分の持っているものの中身を聞かれると、一瞬身構えることもあるけれど、
その中身はもしかしたら、社会の役に立つことがあるから、
ときにはそっと話してみることが、次の一歩になる得ること。

まるでオセロの駒がひっくり返るかのように、
今まで引け目に感じてきた自分の特性のとらえ方が、ゴロゴロごろっと変わった瞬間でした。

 

一人の時間を大切にしていい

これまで必要を感じながらも、取り組むことができていなかったのが、一人で作業することでした。

今となっては「内面を整理するために、ひとりの時間をたっぷりとるようにしています」と言うことができますが、
当時は一人静かに探究することは、怖いこと以外の何物でもありませんでした。

小学生のころによく、暗闇に落ちる夢を見ていたのですが、
蜂にとって一人で作業することは、暗闇にスーッと落ちる感覚と同じだったのです。

 

“一人になってはいけない”

 

“暗闇に落ちる感覚は怖い”

 

“人の輪の中にいないと、先がない”

 

 

と思っていました。

 

そうした思いがあるときは、
一人で没頭しようとしても、心の中には気にかかることがたくさん出てきて、
結局一人ではない、という矛盾した状況になっていました。

それでも当時の蜂は、一人になって、
他からの影響を少なくして、
自分の感覚をあぶりだす必要があったのです。

精神的に決して楽な道のりではなく、
仮に楽しいはずの旅先にいても、内面では、何かがうまく当てはまっていない感覚がいつもどこかあり、不安で、
晴天の空を見ても、グレーがかった曇り空に見えることが多かったことをよく覚えています。

 

何度も歩いた場所が道になる

何年かの試行錯誤ののち、「一人になってはいけない」という心の迷いが、瞬間的に消えることがあるようになると、
道なき場所でも、何度も往復すれば、やがて道ができることを感じ始めました。

その実感が増えるにつれ、目の前のことに没頭できるようになる時間も増えていきました。

 

細かな工夫が独自性になる

すると、こんなことに気づき始めました。

そうか。私はふと気にかかかったことに、手をつけてみたいんだ。

 

おそらく内向的な人には、感覚が鋭い人が多いのではないかと思います。

感覚が鋭いがゆえに、周囲の些細なことから、たくさんの情報を受け取っているのではないか、と。

例えば、身体言語、表情、声のトーン、会話の間、人や集団の雰囲気などから、(おそらく)非常に多くの情報を受け取り、それを整理して、自分の中を空っぽにするまでに、とても時間がかかります。

 

思い返してみれば、仲間と作業しているときに、ここをこうしたらどうだろう、という気づきが起きても、それはたいてい些細なことだったし、
気がついた当人も、気づいたことの大切さに気づいていないのですから、
話にのぼる機会はほとんどありませんでした。

一人刺激の少ない環境で作業していると、
気になったことをすくい上げ、とことん試すことができますし、
そもそも、そうしないと前に進めない状況になっていたのですから、
楽観的に見れば、ようやく願った環境に入れたことになります。

あれこれ試した結果、数多くの失敗もしましたし、
独自の、細かな工夫の連続的な流れ、というアウトプットを得る体験もありました。

 

一生懸命話していい

話すことは相変わらず得意ではないですが、
プレゼンテーションで「そっとしゃべってみたっていいんですよ」と背中を押されたように感じて以来、
自分の心や体に深く響いてきたり、伝えなきゃと思ったときは、瞬発力を燃やして、伝えるようになっています。

 

自分なりの動き方を作る

 

どうしたら内向的な本来の性質を生かして、探求をやり遂げる精神力がつくのか。

 

探索の中で見つけたものを、どのような形にすると、人に伝わるのか。

 

自分のスーツケースの中身に関心を向けられて、自分も話したいと思った時、

どのようにタイミングをつかみ、どのように的確に伝えるのか。

 

 

その答えとなる、自分の基本的な3つの動き方があります。

それが上記の
「一人の時間を大切にすること」、
「何度も同じ場所を歩くことで道ができ、そこで独自の工夫を重ねること」、
「必要な時にそっと一生懸命話すこと」というものでした。

 

動き方の体系づけ

人には独自のエネルギーがあって、
これが自分と思っていたり、好きだと思えるエネルギーと、
嫌いだけど人生に繰り返し現れるものとがあります。

その両者がつながったとき、
より流れがスムーズになり、より大きな自己を生きることができるようになる、といわれています。

 

自分の3つの動き方を活かし、一つのエネルギーの循環の輪にする上で最も大事なのが、順序でした。

 

動き方の微調整

蜂の経験では、その人らしい動きの流れというのは、皆さんすでに気づいていることが多くて、
ただ、その動きの順序が間違っていると、行き詰まりを感じることがあるように思えています。

例えば蜂の場合は、一人の時間を深めることを、いつも飛ばしていたために、
深めきれていないところをずっとさまよって、
自分のエネルギーの消化不良になることが、往々にしてありました。

その順番をちょっと調整すると、
より少ないエネルギーで、持続的に進んでいけるような気がしています。

ここでつかんだ感覚と自分なりの工夫は、生涯の財産になっているように思います。

 

内向的な人のリーダーシップ

スーザン・ケインのこのエピソードは、7年たった今も思い出すエピソードのひとつです。

今改めて聞いてみると、上記の内容に加えて、
社会的に好ましいリーダー像が時代とともに変わっていることや、
外部の刺激から離れる時間を作るという提案も、
今の時代への大切な示唆のように感じます。

 

内部のつなぎ目をスムーズにする粘り強さ

ビジネス書を読んでいたある時、いろいろなビジネススキルが必要ではあるけれど、最も難しいのは、自分自身を知ることだ、と読んだことがあります。

ビジネスと自己理解。

関係が薄いようでいて、両者は、リーダーシップというキーワードで重なる部分があるようです。

よくよく考えてみれば、個人の内面でも、組織の内部でも、
内側から現れようとするものを救い上げる過程と、
救い上げたものを、持続可能なシステムに落とし込む過程は起こるものです。

内部のつなぎ目をスムーズにする作業は、簡単ではありません。

すべての要素を十分に理解し、
つなぎ目となるフックを見つけ出し、それをリンクさせる必要があるからです。

工芸品を例にとっても、つなぎ目なく作るためには、
高度な設計図と職人技が必要になります。

TEDプレゼンテーションにもあったように、
現代ではカリスマ性や、憧れのまなざしを追い求める傾向が昔より強くなり、
内面的な価値に注目して、それに倣おうという傾向は見えづらくなっています。

さらには、内面の混乱や野心を外界に投影するやり方が、社会的に頻発するようになっているようにも感じますが、
そうした傾向では、継ぎ目をスムーズにすることは難しいはずです。

内部の継ぎ目をスムーズにするためには、
数多くの賞賛を受けるどころか、陽の目を見ない、地味な作業が必要で、
結果の出ない日々に、粘り強く小さな変化を探し、励まし続ける忍耐強さが求められます。

そんなときに出番を迎えるのが、内向的なリーダーシップなのかもしれません。

 

ヒーローはそれぞれの内側に

蜂の苦しかった時期に、繰り返し聞いていたのが、マライア・キャリーのヒーローでした。

当時、再生回数が圧倒的に多かった曲です。

くじけそうな自分を励まそうとしていたのだろうと思いますが、
今改めて聴くと、歌詞の”ヒーロー”とは、自分の中に隠れている自分らしさのことなのかな、と思えてきます。

一般的にヒーローと聞くと、外側にいるスーパーマンのような存在を想像しますが、
内面にいるヒーローだとしたら、それはどんな存在なのでしょうか。

きっと、内側のヒーローは人生のガイドになってくれ、
興味がある世界を入り口として、出会うべき人、出会うべき場所に導いてくれることでしょう。

鍛錬を続けることで、奥深いテーマや、
どんな領域からでもたどり着く、普遍的なテーマにまで連れて行ってくれるかもしれません。

分野をまたいで、また出会うべき人に出会え、
辿り着くべき場所に辿り着くこともあるでしょう。

 

内側のヒーローに出会うまでに、あなたはこんな試練を潜り抜けていくかもしれません。

”それをして何になるの?”

 

”自分にできると思っているの?”

 

 

辛辣な自己批判の疑問を投げかけてくるモンスターに出会い、
恐怖におののき、その絶え間ないその叫びに苦しむかもしれません。

気をつけてください。
自己批判や不安を聞き続けることは、どんな世代でもキラーストレスになります。

今すぐ、あなたのいる場所でできるリラックス方法をリストにまとめて、実行してみてください。

アロマを焚いてもいいし、歌を歌いながらの掃除でもいいし、ヨガで体を動かすこともできます。

 

やがてあなたは、そのモンスターに対して、

”何になるかは未知数。

 

今の時点でわかるわけがないし、わかるならする必要がない。

 

未来のことを、誰が知っていると言うの?”

 

 

と返し、いばらの道を突き進むための修練を始めることでしょう。

黙々と続けた修練は、自分の中にいるヒーローを予感させるはずです。

 

また、興味のあることを始めてみるのは、勝手なことでもなんでもありません。

本当に好きで極めていこうとすれば、
歩みを進めるほどに、精度の高い技術が必要になり、
必然的に、経験したことのないものにも挑戦することになるから
です。

ですから、人がなんと言おうと、
何より、自己批判の嵐が吹き荒れようと、
興味を惹かれるものがあれば、まずは小さくでもいいから、飛び込んでみてほしいと思います。

その先に、あなたのありのままの感覚が、見つけられるのを待っているはずです。

 

ありのまま自分らしさ同士は、決してけんかすることがありません。

それどころか、自分らしさを生きている人は、他の人のその人らしさを受け入れることができたり、
その人らしさが現れるのを助けたり、
持続可能な関わりを育む礎に力を注ぐのではないかと思っています。

 

 

 

こんなことが、伊都のカラフルなマットを修理しているときに思い起こされていたのです。

 

 

 

 

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