2021年3月13日土曜日に、NHKスペシャル「大震災と子どもたちの10年 いま言葉にできること」が放送されて、蜂は一視聴者として見ていました。
実際に被災されていて、今も傷が癒えない方が多くいる中で、被災してもいない蜂がこんなことを言葉にすることは本当に申し訳なく感じているのですが、
被災されて家族を失った方々の思いや話を聞くと、今でも二の腕から太ももまでがズキっと痛むので、東日本大震災関連のドキュメンタリーを見るときは、完全に一人の視聴者になって、休み休み見ていました。
その中でも、上記の番組を一度見た後、胸がはじけそうなほど何かでいっぱいになり、言葉が出てこないままになっていて、そのまま眠りについていました。
翌日からバタバタする日が続いていたのですが、番組を見た翌々日に、“今日1日のやり残しはないかな”と夜に周りを見渡していると、心の中でふっと、番組に出ていた女の子の涙が思い出されて、それが3日続き、今日ようやく、あの番組が胸に引っかかっていることに気づきました。
(正確に言えば、自分にとって大きな意味を持つと薄々気づいていたから、蓋を開けたくなかったのでしょうね。)
そして先ほどようやく、もう一度、番組を見ました。
(2021/3/20(土) 午後9:49 まで、NHK+で見逃し放送があります。)
正直に言うと、今もまだ感じるものがたくさんあって、それを言葉にできる状態ではありません。
でも、ひとつ思うのは、「家族の中で、(身体的に)そばにいても、(心が)離れている辛さ」というものが、親の立場の方にも、子どもの立場の方にも、東日本大震災をきっかけに引き起こされている、ということでした。
(実は、このテーマはビーレエションシップの問題意識の核の一つだったのですが、東日本大震災を契機にたくさん引き起こされていることに、この番組を見るまで気づいていませんでした。)
そして、家族だからこそ話せない気持ちを、自分を守るため、家族を傷つけないため、生活を成り立たせるため、震災を言い訳にしないために、個人の中で、必死に押さえて、押さえて、自分の存在がはじけてしまいそうになるほど押さえて、こらえていらっしゃるんだろうな、と話を聞きながら感じていました。
「(家族の中で)そばにいても、離れている」状態というのは、気づかないようにしようと思えば、できないことはなく、捉えづらい、曖昧なものでもあるのですが、
目では見えないところにそうした状態は、確かに存在していて、心が泣くほどつらいことであったり、心の形を作ってしまう影響力もあるように感じています。
番組の中で語られていた話に戻りますと、もしも、そうした状態から本当に目を逸らしていたら、テレビの取材を受けることはしないだろうと思うし、
ご家族の方がご自身の思いを話されていることや、女の子に、自分の気持ちを少しでも話せる場所があってよかったなぁと思ったり、
それでも大人と子どもという立場の違いがあったり、今もあふれそうな気持ちを必死で押さえてこらえていたり、
家族の中でそれぞれが、ピッタリ同じではないそれぞれの気持ちを、わかってあげたくてもわかってあげられない苦しさを感じている最中なのだろうかなと思って、胸が痛くなったりもしていました。
どんな方でも、無理に自分の胸の内を公で語ることはしなくていいと思っています。
そんな中で、番組を通じてご自身の複雑な思いを話し、多くの人に聞かせてくださったことに、心から感謝しています。
無理なく、少しずつ、お茶を飲んだり、好きだった音楽を聴いたり、昔していた何かをもう一度してみたりしたときに、
押さえていた気持ちや、忘れていたり、薄まってしまうのではないかと(怖く)思っていた、過去の楽しい記憶がぽんっと出てきたりして、
少しずつ、押さえ込んでいる胸の内が軽くなっていったらいいなと思っています。
そして、その人がいるだけで、場がどしっと安定する、ということがあると感じています。
相手の言うこと、言おうとすることに、心と耳を傾け、自分の気持ちを共振させる柔軟な強さと、しなやかな優しさ、まっすぐな心の眼を持つ方たちがいると感じています。
そんな方々も番組の中に登場していて、そのあり方は波紋となって、蜂の心にも伝わってきています。
東日本大震災については、蜂がどうあがいても、同じように感じることができない引け目を感じて、触れることが怖いテーマでもありました。
だけど、この番組からは自分にもつながる何かを、たくさん見せていただいた気がしています。
だから、これからも少しずつ、見せていただいて感じたことを言葉に変えられるように努力し、胸に抱えていこうと思っています。